日本の面影

Glimpses of Japan   旧:うぃすぱー・ぼいす
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真実の日本の歴史 〜 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)
戦前の日本史教科書準拠 参考書より

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これまで大化の改新や朝鮮半島をめぐる情勢など、ことこまかに記してましたが、ついに朝鮮半島における倭国の足掛かりとなってた百済も任那に続いて滅亡します。そして日本は国内の整備に向かい、北へ南へと皇威を拡張し、現在の日本列島の領土が形成されていきます。白村江の戦いで敗北を屈した日本は、唐・新羅の本土侵攻に備え、西国(九州)における防備を万全にすべく、強化していきました。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

斎明天皇の御即位
孝徳天皇の崩御―皇太子 中大兄皇子 尚 即位を辞し給う―皇極天皇 再び御即位(即ち斉明天皇)―重祚(ちょうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)の始―皇太子 中大兄皇子の朝政補佐。


北邊(辺)の征服
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の征伐後 東方蝦夷の服従―後 漸く其の勢を復してまた叛す―上毛野田道(カミツケヌノタミチ)の敗死―上毛野形名(カミツケヌノカタナ)の苦戦―越(コシ)の蝦夷 騒ぐ―渟足(ぬたり)・磐船(いわふね)の二柵を設く―越 及び信濃の民を柵戸とす―越國守 安倍比羅夫(アベノヒラフ)の征伐―渟代(ぬしろ)・津軽二郡を置く―渡島の蝦夷を服す―進んで粛慎(みしはせ)を伐つ―蝦夷地方(今の北海道の中部)皇威に服す―蝦夷 平定後の粛慎 再征。


韓土の形勢
歴代任那の回復に尽力―大化新政の頃は唐朝の初期―唐の勢 日に隆盛に赴く―新羅 任那を併せし後 國力 大に張る―高麗(高句麗のこと) 隋軍を邀(むか)え撃つ―高麗の勢 新羅と伯仲す―高麗・新羅 互に隙を生ず―高麗 百済に結びて新羅を攻む―新羅に武烈・文武の二王 出づ―新羅 唐に通じて援を乞う―唐主 高麗を討つ―唐軍 高麗に克つ能わず―百済の国政 大に紊(みだ)る―新羅 唐兵と共に百済を降す―百済の遺臣 鬼室福信(キシツフクシン) 援を我に求む。


百済 高麗の滅亡
斉明天皇 皇太子と共に新羅 御親征―天皇 筑紫に御進発―朝倉宮に崩御―皇太子 中大兄皇子 天皇の御志を継ぎて軍を統べ給う―阿曇比羅夫(アヅミノヒラフ)等の差遣―我に質たりし百済王子 豊璋(ホウショウ)を送る―百済國の再興―百済 鬼室福信を疑いて之を殺す―皇軍 百済を救いて唐兵と戦う―皇軍 利あらず(白村口の戦)―百済 内乱起る―百済王 高麗に走る―百済の滅亡―後5年 高麗の滅亡。


新羅の一統
唐 安東都護府(アントウトゴフ)を平壤に置く―新羅の文武王 唐兵と争う―新羅 平壤以南の地を略取す―唐 安東都護府を遼東に移す―新羅 朝鮮半島の一統。


朝鮮半島の離畔(離反)
中大兄皇子の御即位(天智天皇)―天皇 内外の形勢に考え既往の実績に徴し給う―朝鮮半島に関係の不利―百済の滅亡と共に朝鮮半島より我が軍を収む―大に内政につとめますます國防を厳にす―朝鮮半島の離反(神功皇后以来 茲(ここ)に四百数十年)。


新羅の待遇
新羅は朝鮮半島一統後も来朝す―我は対等以下を以てこれを礼遇す。


唐との修好
百済の滅亡後 唐使 来りて好(よしみ)を求む―我また使を送りて之に答う―彼 我の國交 舊(旧)に復す―唐の文物制度の輸入。


〇越の蝦夷征伐と安倍比羅夫
蝦夷は景行天皇の御代、日本武尊の征伐後 一且(いったん)平定せしが、年を経るに従いて、漸く其の勢を恢復(回復)せり。仁徳天皇の55年、上毛野田道(カミツケヌノタミチ)其の叛を征して敗死し、舒明(ジョメイ)天皇の9年、上毛野形名(カミツケヌノカタナ)将となりて之を討ちしが勝つを能わざりき。孝徳天皇は、大化3年 渟足(ぬたり・越後の沼垂町辺)に柵を造り、翌年また磐舟(越後の岩船町)に柵を造り越(越後越中越前地方)と信濃との民をうつして之を戍(まも)らしめ給う。尋(つい)で斉明天皇の御代に至り、安倍比羅夫 舟師百八十艘(そう)を率ゐ、日本海方面より蝦夷を伐ちて秋田・能代の蝦夷を降し、遠く渡島(北海道)の蝦夷をも招く、翌5年 比羅夫 再び舟師を率ゐ、津軽(陸奥 青森辺)地方を定めて北海道地方にまで及べり。比羅夫の始めて蝦夷を伐つに当り、進んで粛慎(アムル下流の沿岸に住せし種族)を討ちしが、6年 之を再征するに及び、陸奥・北海道の蝦夷 人を使役し、進んで樺太地方にて大に粛慎兵と戦いたり。
〇上毛野田道と上毛野形名
上毛野氏は、崇神(スジン)天皇の皇子 豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の後なり。田道は仁徳天皇の53年、新羅を伐ちて大に之を破り、其の四邑(ゆう)の民を虜にして還る。越えて55年 蝦夷の叛を伐ち遂に伊寺水門(いじみのみなと 陸奥 石巻辺か)に戦死す。又 形名は舒明天皇の9年、将軍となりて、蝦夷を討す。然るに形名 却って蝦夷に破られて、走りて壘(とりで)に入る。賊 之を圍(囲)み、形名 夜に乗じて逃走せんとす。形名の妻 之を漑(まか)きて曰く、難に臨みて逃るるは唯に恥を取るのみならず、祖先の功名をも廃するに至ると。即ち形名の酔いて寝ぬるを伺い、自ら其の劔(剣)を帯びて婢女等数人に弓弦(ゆみづる)を鳴らさしむ。形名 醒(さ)めて起ち、武器を取りて進む。賊 其の兵の多きを思い、囲を解きて去る。形名 遂に之を撃ちて破ることを得たり。
〇柵戸
柵は古に城と共にキと云うより、柵戸をキノヘとよぶ。後には土を築きて構えたるを城とし、木を建て貫を通じて構えたるを柵(さく)とす。柵戸は此の柵に在りて防御の任にあたれる戸を云い、大化3年之を置きしを始とす。
〇高麗 隋軍と戦う
隋の文帝(皇紀1258年)の時、高麗の嬰陽王(エイヨウオウ)遼西(盛京省西境)を侵せしかば、文帝 之を伐たしむ。されど糧食つがずして隋軍退き、高麗また之と和す。文帝の子 煬帝(皇紀1272年)また大兵を発して高麗を伐ちしが、隋軍 潰走(かいそう・戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること)して軍資器械 皆失う。煬帝 大に怒り、翌年再び兵を挙げて侵入せしが、遂に勝つ能わずして軍をかえせり。
〇武烈・文武の二王
武烈王(皇紀1314-1320)は新羅29代の王にして、其の子 文武王(皇紀1321-1340)と共に英明なりき。此の二王の時、唐と同盟して百済・高麗を滅ぼししが、間もなく文武王は百済の旧地を併せんとし、唐の勢力を朝鮮半島より除かんことに努めたり。唐 高宗(皇紀1320年)之を詰問せしも、文武王 之に応ぜずして遂に唐兵と戦い、半島の大部分を占領したり。
〇鬼室福信
新羅の唐兵を誘いて百済を攻むるに当り、鬼室福信(キシツフクシン)は國人を集めて王城を守り、斉明天皇の6年、使を我に遣わして救を請い、且つ曩(さき)に遣わせし王子 豊璋(ホウショウ)を迎えむことを乞う。かくて豊璋の國に還るや、福信 之を迎えて専ら國政に参与す。然るに豊璋 福信を疑い、天智天皇の2年、遂に之を殺しぬ。かく福信は百済末路の良将にして、常に回復に苦心せしが、王 之を殺して其の滅亡を速ならしめたり。
〇朝倉宮
宮址は、筑前朝倉軍宮野村大字須川なりと云う。斉明天皇 百済の請を許し、新羅を撃ちて百済を救わんとし給い、其の7年、親(みずか)ら筑紫に幸して此に行宮を立てさせ給う。当時 其の宮殿の材 削らざるを以て木丸殿と云う。
〇白村口(江)の戦い
白村江は、今の朝鮮 忠清南道の錦江なり。初め百済王 豊璋の鬼室福信を殺すや、新羅 之を知り、直に其の王城をつかんとす、偶(たまたま)日本軍の至るを聞き、其の兵士を白村江に屯せしむ。唐将 劉仁願等の率いたる戦船170艘も、また白村江に陣を列す、かくて我が兵 唐軍と大に此に戦いしが利ならずして退き、豊璋 遂に船に乗じて高麗に走り、百済 遂に滅亡せり。
〇安東都護府
唐は其の征服せる土地を守護する為に、四辺に都護府を設く。而して高麗 百済を滅すに及び、其の故地を管する為に平壌(平安南道)に安東都護府を設く。されど新羅 文武王の時、之を今の奉天府遼陽州の北に在りし遼東城に移したり。
〇唐との修好
天智天皇 百済を救わんが為に唐兵と干戈(かんか)を交え給いしが、其の3年 唐将 劉仁願(リュウジンガン)の郭務悰(カクムソウ)をして表を上り物を献ぜしむるや、之に饗賜(きょうし)し給い、翌年 唐 更に劉徳高(リュウトクコウ)を遣わし、其の帰るに及び使を派して之を送らしめ給う。尋で6年 劉仁願、また司馬法聰(シバホウソウ)をして、我が境部石積(サカイベノイワツミ)等を大宰府に送らしめ、8年 天皇 河内鯨(カワチノクジラ)等を使者として唐に派し給い、唐また郭務悰等二千餘人を我に遣わせり。かくして唐との修好成り、やがて遣唐使留学生・留学僧 相ついで彼地に赴き、唐の文物制度を輸入するに至れり。
〇三韓放棄の主因
神功皇后 三韓征伐の後は、三韓 我に朝貢し、其の文物を輸入して我 國運の進歩を助けたり。されど年を経るに隨(したが)いて、叛乱しばしば三韓に起り、我は之が鎮撫に疲るるの有様となりしが、支那に隋起り、やがて唐 之に代りて其の勢を三韓に及ぼすに至り、其の統御(とうぎょ・全体をまとめ支配すること)頗(すこぶ)る困難の形勢となりぬ。加之(しかのみならず)我には内治の急にすべきものありしかば、天智天皇は其の差遣の皇軍を召還し給い、一方には大に国防を修めて唐に備え、一方には等の請を許して其の交を修め給えり。
〇天智天皇の御事蹟
舒明天皇の御子にして初め葛城皇子と称し、一に中大兄皇子と申す。天皇 英明にして蘇我氏の専横を憤り中臣鎌足と図りて之を滅し給う(コチラ参照)。孝徳天皇 即位に及び皇太子となりて朝政を輔(たす)け、英断を以て大化改新(コチラ参照)を決行し給う。かくて斎明天皇の朝なほ皇太子となりて政を佐(たす)け給う。此の時 百済 急を告げて救を乞い、斉明天皇 九州に行幸し給うに及び、其の四征に従い給う。たまたま斎明天皇 行宮に崩じ給うや、天皇 素服(そふく・凶時に際して着用する喪服の一種)して制を称し、将を遣わして唐軍と戦わしめ給いしが、皇軍 利ならずして百済 遂に亡ぶ。天皇乃ち軍を還えしてますます西國の防備を修め、6年(皇紀1327年)都を近江の大津に遷し、翌年 即位の禮(礼)を行わせ給う。是より先、天皇令を定め冠位を制し給いしが後、朝禮を定め、戸籍を造り学校を興し給う。其の御治蹟 甚だ著しかりしかば、後世 中興の英主と称し奉る。天皇在位11年 御年46にて崩じ給う。


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