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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
神武天皇

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(2016.10.20)  (始めから)
『最新 日本歴史解釈』第二章、今回は神武帝が日向を出発しての東征による長髄彦(ナガスネヒコ)らとの戦いから大和までの平定、(かしはら)橿原宮の造営と神武天皇 即位の大礼(日本建国)や國造・縣主の地方官任命等までになります。
同じ妻木さん作成の学習年表、及び神武天皇の即位式の映像もコチラに掲載してますので、ご参照くださいませ。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

天皇の御東征
神武(ジンム)天皇は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御曾孫−天皇初め日向に居給ふ―東方諸國の酋長(しゅうちょう)―各割拠して互に争う―東方平定の御計策―皇兄 彦五瀬命(イツセノミコト)と謀議―皇兄及び皇子と共に東征―御東征の順路―高島宮(タカシマノミヤ)―皇軍の浪速(ナニワ)到着。


大和地方の平定
登美(トミ)の長髄彦(ナガスネヒコ)―国見(クニミ)の八十梟師(ヤソタケル)― 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)―ナガスネヒコ ニギハヤヒノミコトを奉じて皇軍を防ぐ― イツセノミコトの負傷―皇軍、路を転じて大和に向かう―道臣命(ミチノオミノミコト)・大久米命(オオクメノミコト)の嚮導(きょうどう)―金鵄勲章の由来―ヤソタケル・土蜘蛛(ツチグモ)等の土賊―ナガスネヒコの誅―土賊の服従―大和地方の平定。


御即位の大禮(たいれい)
畝傍山(ウネビヤマ)の東南、橿原(カシハラ)に奠都(てんと)―橿原の神宮―御即位の大禮―五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の御冊立―紀元元年と紀元節―論功行賞―祭政一致(さいせいいっち)―中央政府の組織―天種子命(アメノタネコノミコト)・天富命(アメノトミノミコト)・可美眞手命(ウマシマデノミコト)―國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等の地方官―皇祖天神を鳥見山(トミノヤマ)に祭る。

 

〇東方諸国の状
天孫既に降臨し給いし後、御子孫代々西辺に居給いしを以て、東方の遠き地は未だ皇澤(こうたく)にうるおわず、村々に長ありて各疆(サカイ)を分かち、これに拠りて互に相争い、人民為に業に安んぜざりき。天皇かつて此の東方にて政治をなすに美しき地あるを聞き給いしかば、此の苦しめる人民を安んぜんとし、皇兄・皇子どもとはかりて東方平定のことを決し給う。
〇神武天皇御東征順路
皇軍日向を出でて豊予海峡をすぎ、豊前の宇佐及び筑前の遠賀川口をへて安芸の埃(エ)の宮(所在未詳)に至り、翌年備前の高島の宮(備前見島湾口高島か)に出る。天皇此の宮に居給うこと三年、其の間に戦船をそろえ兵食をそなえ、将に一挙に東方を平らげんとし給う。かくて皇軍は海上より進みて難波埼(大阪市の南方より大阪城辺に至れる高地の古称なり)に至る。此の沿岸の潮流はやきを以て、此の國を浪速(ナミハヤ)と名づけらる。今の大阪地方なり。此の浪速(ナミハヤ)をなまりて難波(ナンバ)と云い、又浪速を一に浪華(ナニワ)とも書するに至る。次いで皇軍浪速より東方生駒(イコマ)山をこえて、大和に入らんとせし時、大和の登美(生駒郡富緒村)のナガスネヒコこれを孔舎衛坂(くさえざか)(クサカ河内中河内郡)に逆へ撃ち、皇軍利あらず。皇兄 イツセノミコト負傷し給う。天皇軍を返し更に紀伊に至り給いし時、命軍中に薨(こう)じ給う。皇軍やがて熊野(紀伊)に至りしに、山中行くべき道なし。天忍日命(あめのおしひのみこと)(コチラ参照)の曾孫 道臣命や、八咫烏の嚮導(きょうどう)によりて、わづかに大和の吉野川筋に出て、宇佗郡より西に向かいて大和の平野に出づること得たり。
〇長髄彦(ナガスネヒコ)
ナガスネヒコは登美の酋長なり。皇軍の来るを聞き、其の君とせる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を奉じてこれを逆へうつ。其の後、皇軍しきりに勝ち、ニギハヤヒノミコトまた大儀を覚りて皇軍に降らんとせしが、ナガスネヒコの性剛愎(ごうふく)にして物を解せず、ミコト即ちナガスネヒコを誅して帰順す。
〇国見の八十梟師(ヤソタケル)
八十梟師(ヤソタケル)は八十建とも書す。其の八十は数多きの意にて、師は威勢ありて猛勇のものを云う。其の国見岳(大和)に在るを国見のヤソタケルと云い、磯城(シキ大和)に在るを磯城のヤソタケルと云い、又熊襲(九州)に在るを熊襲八十梟師(クマソヤソタケル)と呼ぶが如し。
〇饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
ミコトは天神(天つ神)の子にして、早く天上より降れるものなり。ナガスネヒコに推され其の妹を娶りて可美真手命(ウマシマデノミコト)を生む。皇軍来るに及び、ナガスネヒコ 天神の子に両種なしとしてこれに抗し奉る。天皇すなわち天神の証を示し給いしも、ナガスネヒコなお剛腹(ごうふく)にして改むること能(あた)わず。ニギハヤヒノミコトよりてこれを誅し、其の衆と共に帰順す。天皇其の忠を賞してこれを用い給う。天皇 ウマシマデノミコトをして物部(武士)を統べしめ給い、子孫世々相ついで仕え奉る。物部氏の祖是れなり。
〇道臣命(ミチノオミノミコト)
初め日臣命(ヒノオミノミコト)と称す。天皇御東征の際、熊野の山路すこぶる険悪にして皇軍進むこと能(あた)わず。此の時ヒノオミノミコト其の部下を率いて路を啓(ひ)らき、八咫烏(ヤタガラス)の向かう所にまかせて進み宇陀(大和)に至ることを得たり。天皇其の忠勇を賞して、名を道臣(ミチノオミ)と改めしめ給う。かくて賊 兄猾(エウカシ)を討ち給うや、ミチノオミノミコトをして其の状を察せしめ、又大宴を設けて国見岳の余薫(よくん)を誘わしめ給う。天皇即位の翌年功を賞し給うに当たり、ミチノオミノミコトに宅を賜りて寵遇(ちょうぐう)し給い、又其の部兵をして畝傍山(ウネビヤマ)の附近に居らしめ給う。大伴氏の祖は此のミチノオミノミコトなり。
〇金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来
皇軍既に国見岳のヤソタケル及び賊兄磯城等を滅し遂にナガスネヒコに逼(せま)りしも、未だ勝つこと能(あた)わず、怱(たちま)ち天曇りて雨降り、金色の鵄(とび)飛び来たりて天皇の弓弭(ゆみはず)に止まる。是れより皇軍大いに振るい、ナガスネヒコまた戦うこと能(あた)わず、遂にニギハヤヒノミコトによりて誅に伏しぬ。此の金鵄(きんし)の瑞(しるし)は、即ち今日の金鵄勲章の由来なり。明治23年の紀元節に下し給える詔(みことのり)の中に「天皇戡定(かんてい)の故事に徴し金鵄勲章を創設し将来武功抜群の者に授興し云々」と見え、其の故事とのたまえるは神武天皇 大和戡定(かんてい)の時に霊鵄の瑞(しるし)ありしことと推し奉らるるなり。
〇土蜘蛛(ツチグモ)
土ごもりの約にて上古(じょうこ)に穴居(けつきょ)の夷族の猛く暴くして人を害(そこな)うものの称とも云い、又高尾張(大和)に在りし土蜘蛛が、身体短くして手足長く、あたかも短人に似たりと伝えられたれば、其の人種の形の蜘蛛に似たるものの名とし、他もこれになぞえて呼びしとも云う。
〇橿原神宮(かしはらじんぐう)
宮址(きゅうし)は、神武天皇の大和地方を平定し給いて後、宮殿を経営せしめ給いし地にして、今の大和高市郡畝傍山の東南に在り。明治22年、此の宮址を調査してここに橿原神宮を建て、神武天皇を奉祀(ほうし)す。社殿は京都御所の温明殿(うんめいでん)及び神嘉殿(しんかでん)を移して営みしなり。神宮は明治23年3月20日官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列せらる。
〇五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の冊立(さくりつ)
天皇既に即位の大禮(たいれい)を橿原宮に行わせ給い、貴族をえらびて皇后とせんとし給い、此れにイスズヒメノミコトを皇后に冊立し給う。皇后の父は大国主命の子 事代主命(コトシロヌシノミコト)にしてスサノオノミコトの孫に当らせらる。
〇紀元元年と紀元節
神武天皇即位の大禮(たいれい)を行わせ給いしは、辛酉(しんゆう)の年の正月朔日(さくじつ)にして、大正6年を去る実に2577年の昔に在り。正月朔日を太陽歴に換算して正に2月11日に当たる。明治5年11月、此の即位の年を以て我が紀元元年と定められ、翌年1月更に即位日を祝日とし、尋(つい)で此の日を紀元節と名付けらる。
〇論功行賞(ろんこうこうしょう)
神武天皇即位の二年 群臣の功を定め賞を行い給う。ミチノオミノミコトは宅地を賜わりて殊に寵せられ、珍彦(ウヅヒコ)を倭國造(やまとのくにのみやつこ)に、劔根(ツルギネ)を葛城國造(かつらぎのくにのみやつこ)に、又 弟猾(オトウカシ)を猛田の縣主(アガタヌシ)に、弟磯城(オトシキ)を磯城の縣主に各任じ給い、又ヤタガラスも嚮導(きょうどう)の功を以て賞せらる。
〇祭政一致
上古に於ける政治は、其の天神地紙(てんじんちぎ)を祭るを以て重なるものとす。故に古来 祭(まつり)と政(まつり)とは一致なりとの称あるなり。
〇中央政府の組織
当時の朝官は世襲にして、中央政府の組織もすこぶる簡易(かんい)なり。即ち天種子命(アメノタネコノミコト)は、天富命(アメノトミノミコト)と共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し、又ミチノオミノミコトは、オオクメノミコトと共に各部下の将士を率いて宮門を護衛し、ウマシマデノミコトは、其の部下の将士を率いて殿内に宿衛せり。
〇天種子命(アメノタネコノミコト)
ミコトは天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫なり。神武天皇の中国平定に仕え、天皇平定の後に鳥見(とりみ)の山中に皇祖天神を祭り給う時にこれを輔け奉り、又アメノトミノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を佐(たす)け奉る。
〇天富命(アメノトミノミコト)
ミコトは太玉命(フトタマノミコト)の孫なり。山材を採りて皇孫の為に宮殿を作り、齋部(いんべ)の諸氏を率いて種々の賽鏡及び木綿・麻等を作らしめ、又アメノタネコノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し奉る。
〇大久米命(オオクメノミコト)
久米氏は其の祖 高皇霊尊(タカムスビノミコト)に出づ。神武天皇御東征の時、オオクメノミコトはミチノオミノミコトと共に軍に従いて功あり。平定の後もミチノオミノミコトと共に各部下と率いて、宮門を警衛し奉る。
〇國造・縣主(クニノミヤツコ・アガタヌシ)
國(国)造・縣(県)主は中央政府の朝官に対し、地方官の名称なり。其の國造の造は御臣の義にして、國造の治むる区域は、略後世の郡に同じ、又縣主の県は、朝廷の御耕田を云い、また田舎をも云う。縣主は其の県(後の郡位のもの)を治むる長官にして、当時は畿内の御耕田を掌(つかさど)るものを云う。要するに國造・縣主は、皆世襲の職にして、其の職掌(しょくしょう)は土地を領して人民を治め、神紙(じんぎ)を奉りて田賊を貢するにあり。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 崇神天皇と垂仁天皇

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