日本の面影

Glimpses of Japan   旧:うぃすぱー・ぼいす
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世〜近代 【目次】

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m

真実の日本の歴史【尋常小学 国史より】シリーズ、ページが増えた時のため、掲載分の目次をアップしておきます(尚、参考までに右画像は尋常小学国史 上下巻分の全目次。クリックで拡大)。
中世以降の分では、このように国史教科書から掲載利用してるのに、なぜ、神代〜古代までの分では、当時の日本史(国史)参考書から掲載したのかといいますと、神代から古代については、当時の国史教科書ではここの読者には内容が浅すぎると思えるからです。当時の尋常小学国史では、神代がいきなり天孫降臨から始まったりしてるし、内容が薄いんです。中世以降は、当時の国史教科書でも内容が割としっかりしてるので、そこから利用していきます。

今の歴史教育では、ごく上っ面の表面的、語句や人物名とかしか教えられていないため、有機的につながった役に立つ知識が得られず、心の教育や皇室の由来や天皇の担ってきた役割がまるで学べません。ぜひ基礎的な知識として当時の教科書、参考書から学んでください。引用の絵や資料もすべて戦前当時の教材からです。ここの読者は戦前の教育を受けた人々と、その心や思いでそのままつながることが出来るんですよ。ここはなんて素晴らしいサイトなんでしょう (^▽^
◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
戦前教科書 尋常小学 国史より  中世〜近代 【目 次】

1 第二十二 後醍醐天皇

2 第二十三 楠木正成

3 第二十四 新田義貞

4 第二十五 北畠親房と楠木正行

5 第二十六 菊池武光

6 第二十七 足利氏の僣上

7 第二十八 足利氏の衰微

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! ─10月30日は教育勅語発布日 〜 教育勅語を称える、唱歌『勅語奉答』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆キュートな教育勅語のご紹介 〜 9歳 教育勅語 読誦

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! 〜 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  /逝紂々調陲領鳳

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ◆/隻霤傾

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆武士の子女教育カリキュラム 〜 貝原益軒『和俗童子訓』より

◆“道徳教育”と称して進められる、これからの日本人家畜化教育について 〜 もはや大多数の家畜化は逃れらない

◆左翼教育者が持ち上げる、フランス革命を引き起こしたルソーの人間獣化思想 〜 ルソー生誕300年で、日教組やPTA左派が暗躍中

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆家庭内における戦前の教育再現 〜 わが家で使ってる子供用教本 〜 修身と国語副読本
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十八 足利氏の衰微

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(戻る)
さて、アッチ系のニセモノ国史研究家なんてインチキ保守知識人とかも蔓延ってますが、本物の【尋常小学国史】より第7回目の今回は、かつてない応仁の大乱のさなか、足利幕府のあだ花のような義政の時世。自分が世を乱した張本人でありながらそれを放置し、戦のさなかも贅に遊びに耽っていた、大変たわけた将軍です。
この後は戦国時代に突入し、国史教科書では北條氏康、上杉謙信と武田信玄、毛利元就の章と続いていきますが、戦国期については今も軍記モノや戦国武将ネタで割とよく知られているので、いったん割愛します。戦国時代の間も皇室不遇が続きますが後奈良天皇による再興がなされ、織田信長の登場によって皇居も再建されます。
次にやるなら、その辺りからにしましょうか。原稿は本章までしかアップしてないので、いったんお休みにします。私にはブログランキング上位に上げさせられる余裕資金なんてないし、あるのは思いだけ。自ら腕を振る以外何もできません。ご支援よろしくお願いします ^▽^)

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学 国史より А‖萋鷭夙 足利氏の衰微(すいび)

義政が政治に怠った
義満から四代たって、義政の代となった。義政はわづかに9歳で家をつぎ、ほどなく将軍となったが、少しも政治に心を入れなかった。たまたま大風や洪水があって、五穀がみのらない上に、悪病が流行って、人民が非常に困っているのに、義政は一向 憐みの心がなかった。かえって大金をかけて盛に室町の邸の普請(ふしん)などをしたので、第百二代 御花園(ごはなぞの)天皇は、たいそうご心配になって、これを戒められた。さすがの義政もこれにおそれいって、いったん工事をやめさせたが、なほたびたび花見の宴などを開いて、おごりにふけっていた。それ故、費用が足らず、人民からたくさんの税を取立てたので、人々の苦しみはますますつのり、世の中はいよいよ騒がしくなった。
足利家の相続争
義政は、三十歳ぐらいになると、はや政治に飽いてきた。けれども、まだ子がなかったので、弟の義視(よしみ)を養子とした。そうして、義視に将軍職を譲ろうと考え、細川勝元にこれを助けさせた。この時、義政は、この後たとい子が生まれても、けっして義視を退けるようなことはしないと堅く約束した。ところが、まもなく実子の義尚が生まれると、その母は、どうかして義尚を立てようと考え、山名宗全が勝元におとらない勢があるのを見て、これに義尚をたのんだ。
細川勝元と山名宗全とが対立した
足利家の相続の争は、そこで、細川氏と山名氏との争となったのである。

応仁の乱
紀元2127年、第103代 後土御門(ごつちみかど)天皇の応仁元年に、勝元も、宗全も、めいめい味方の大軍を京都に呼び集めた。そうして、勝元は、室町の幕府に入ってここに陣を取り、その兵はおよそ16万、宗全の陣はその西にあって、その兵はおよそ11万であった。これから、両軍は11年の長い間、戦ったが、その間に、宗全や勝元は続いて病死し、後には、両軍の将士らも戦争に飽いて、次第に国々に引き上げていった。京都の騒ぎは、そこで初めて静まった。世にこれを応仁の乱というのである。

大乱の後の京都の有様
この乱のために、幕府をはじめ、名高い社や寺、その他たくさんの建物は、たいてい焼けてしまって、花の都もあわれ焼野(やけの)の原となった。ある人が、この変りはてた有様を嘆いて、

汝(なれ)や知る 都は野べの 夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見ても 落つる涙は。

と詠んだ。
銀閣
こういう大乱の中でも、義政はなほおごりをやめないで、後に、京都の東山(ひがしやま)に別荘を造り、義満の金閣にならって、庭の中に銀閣を建て、茶の湯などの遊にふけり、むだに月日を送っていた。
幕府が衰えた
それで、幕府の財政はますます苦しくなり、将軍の命令は、ほとんど行われないようになった。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(戻る)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より Α‖萋鷭充掘‖利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 〜 映画『忠臣蔵』より

◆映画『Sayonara』 愛を貫いて死を恐れない、ヤマトナデシコ〜 変れば変るもの。日本人の美意識

◆謡曲の魅力 〜 日本人の心としての能の世界

◆往年の日本映画を子供が見はじめました! 〜 『山椒大夫』 『隠し砦の三悪人』

◆『お正月』の歌に見る、日本の子供文化の完全崩壊!〜 独楽、羽根つき、凧揚げ、マリつき・・・どこいった!?

◆戦前の道徳教科書『修身』に見る加藤清正の武勇伝 〜 自虐史観の正反対から見る豊臣秀吉の朝鮮侵攻

◆男の子がいるなら五月人形と鯉のぼりを飾ろう!〜日本の伝統文化を形にして意思表示を
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十七 足利氏の僣上

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(戻る)
これまでの吉野朝の足利への奮戦、いかがですか? 今の学校で教えられていない華麗な吉野側の武将たち。対して己の利得のためだけに集まった烏合の衆 足利陣営。この通り、吉野朝 官軍側は親子兄弟揃って忠義をまっとうし続け、理想を体現化した集団。対して足利側は利得に目が眩んで帝に叛き、兄弟でも殺し合うような、疑念と背信うずまく規律なき集団。ここまで読まれれば、どうして私が戦前の国史(日本史)教科書の建武の中興をここに掲載しなければならないと考えていたか、しっかりおわかりになれたことと思います。今の学校教育は唯物的でそのような人の心に触れる歴史教育がされておらず、南北朝時代ではなく吉野時代、南朝ではなく吉野朝と呼んでいた戦前までの教育を知っておかないと、先人たちと心をつなげることができないのです。しかもその辺の情報でも大概が、吉野側の武士は皆、惨めな死に方したとか、後醍醐天皇は傲慢だったとか、非常に恣意的に書かれています。逆に尊氏の方が立派で人に好かれるタイプだったとか、悪意のイメージ作りムチャクチャ。先の大戦で英霊たちが皆、惨めな無駄死にしたとするような、自虐左翼史観と共通の描かれ方がなされているのです。これでは稀有で偉大な後醍醐帝や吉野の英雄武将たちへの敬意が育つはずもありません。
正当だった吉野朝、しかし正義が勝つとは限らず、賊軍 足利側が事実上の勝利をおさめるわけですが、以後の義満も天皇ないがしろで支那に対して国王を名のるありさま。この不徳な流れは後の応仁の乱、下剋上・戦国時代突入と、国全体の混乱につながり、足利室町の時代は乱れに乱れ、やがて室町幕府は織田信長に滅ぼされることになります。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学 国史より Α‖萋鷭充掘‖利氏の僣上(せんじょう)

尊氏の無道
尊氏は、さきに後醍醐天皇からお手厚い恩賞をいただきながら、その御恩を忘れて、朝廷にそむき、忠義な人々を殺し、おそれ多くも皇族を害し申すようなことさえした。かような無道の行が多かった上に、自分の家をもよく治めることが出来ず、兄弟互いに憎みあい、はては弟の直義を毒殺してしまった。部下の将士もたびたびそむき、また互に争っていたので、いつも騒ぎが絶えなかった。その間に、足利氏は、尊氏の子 義詮(よしあきら)から孫の義満(よしみつ)の代となった。
細川頼之が義満をたすけた
義満が年ようやく十歳の時、父 義詮は重い病にかかって、もはや回復の望がなくなったので、日頃 信頼している細川頼之(ほそかわよりゆき)に遺言して、義満をたすけ導かせることにした。頼之は、足利市の一族であるが、いたってつつしみ深い人であったから、義満のそばに仕えている人々には、常におごりを戒め、またわがままな大名をおさえるなど、真心こめてその主をたすけた。それ故、これから足利氏の基はだんだん固くなった。
後亀山天皇が京都におかえりになった
義満は、やがて使を吉野にさしあげて、天皇に、京都へおかえりなさるようにお願いした。後村上天皇の御子 第九十九代 後亀山天皇は、かねがね、長い間の戦乱で、万民が苦しんでいることを不憫(ふびん)に思っていらっしゃったので、ただちにその願をお許しなさって、京都におかえりになり、神器を第百代 後小松天皇にお伝えになった。時に紀元2052年(元中9年)、後醍醐天皇が吉野へ行幸をなさってから、およそ60年ばかり経っていた。今までたいへん乱れていた世の中も、これから、やっと静まった。けれども、義満は征夷大将軍となって、大いに勢を振るうようになり、ふたたび武家政治の世となった。
義満がおごりをきわめた
義満は、まもなく将軍職を子の義持に譲ったが、自分は太政大臣になりたいと望んだ。武人で太政大臣に任ぜられたことは、平清盛から後 全く例がなかったのである。それにもかかわらず、義満はたびたび朝廷にお願いして、とうとう望をとげた。
金閣
このように、義満のわがままは次第につのり、はてはおごりの生活にふけるようになった。その室町(むろまち)の邸は、この上ない立派なもので、庭には美しい花がたくさん植えてあったから、人々はこれを花の御所といった。義満はまた、京都の北山(きたやま)に別荘を造り、庭に三層の楼閣(ろうかく)を建てて、壁といわず、戸と言わず、すべて金箔(きんぱく)で張りつめた。その美しさは、言葉にも、筆にもつくせないほどで、人々は、これを金閣と呼んだ。義満は髪をそってここに住み、なほ政治をとっていたので、朝廷の官吏も、皆 義満の威勢に恐れて、この別荘に来てその命令を受けるという有様であった。
義満の僣上(僣上とは、身分をわきまえない、さしでた行為をすること)
義満は、勢の盛なのにまかせて、臣下の分をわきまえぬわがままな行が、いよいよ多くなった。かつて比叡山に登った時などは、関白以下の公卿を従えて、おそれ多くも上皇の御幸(みゆき)の御儀式にまねたほどであった。
義満が國體をかろんじた
この頃、支那は、元がほろびて明の時代となっていた。義満は使を明にやって交際をはじめたが、明主(みんしゅ)が義満を指して日本国王といっても、義満は別にはばかる様子もなく、自分からも進んで日本国王と名のって、書を送った。わが国には、天皇の外にまた国王があろうか。義満の行は、実にわが國體(こくたい)をかろんじたものというべきである。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続く)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より А‖萋鷭夙 足利氏の衰微

(戻る)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より А…鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

◆日本人の美意識が結集!溝口健二『雨月物語』〜 品が悪くなった日本女性

◆そもそも革命とは 〜 フランス革命に見る民衆とマスコミの狂気

◆男女観・家庭破壊の行着く先 〜 夫婦別姓で家族の安心と信頼は消滅

◆世界が憧れた日本の家族の絆 〜 小津安二郎映画に見る世界
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十六 菊池武光

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(戻る)
大楠公、小楠公、新田義貞、北畠顕家……吉野朝廷の忠臣たちの利欲にとらわれない美しすぎる生きざま。これが戦前の人々の尊敬を集め、その模範となった生き方です。
けれども親子またいで武将たちが奮戦する中、吉野側の勢力は次第に衰えてしまいます。そんな中、最後まで素晴らしい働きをし、勢いあったのがこの菊池氏一門。だけど菊池武光にいたっても、今の学校ではまるで教えられていませんよね。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜(きくちたけみつ)

肥後の菊池氏
朝廷では、たのみにしていた正行(まさつら)や親房(ちかふさ)のような忠臣がつぎつぎに亡くなったばかりでなく、国々の官軍もまた、たいてい衰えたが、ひとり九州では、官軍の勢いがなお盛であった。先に弘安の役に武勇の誉をあげた菊池武房(たけふさ)の孫の武時(たけとき)は、元弘3年、国々に勤王の軍が起こった時、早くも義兵を肥後に起し、わづかな兵を率いて博多の賊を討ち、はなばなしい戦死をとげた。これが九州で起った勤王の軍のさきがけで、その後、武時の子らも、皆よく父の志を受けついて忠義を尽くした。
武光が懐良親王をお迎え申した
時に、後村上天皇の御弟 懐良(かねなが)親王は、西国の官軍を統(す)べられるために、九州へお下りになった。武時の子の武光は、これを肥後にお迎え申し、親王をいただいて、たびたび賊軍と戦い、その勢がおいおい盛になった。尊氏はそのなりゆきを心配して、自ら武光を討とうとしたが、まだ出かけない中に、病にかかってにわかに死んだ。

筑後川の戦
菊池氏の勢いはいよいよ強くなり、武光は親王をいただいて兵を筑後に進め、賊の大将 少弐頼尚(しょうによりひさ)の軍と筑後川をはさんで陣を取った。武光は川を渡って戦をしかけたが、頼尚は陣を堅うして、なかなか戦おうとしなかった。そこで、武光は、さっそく兵を分けて攻めることとし、自分は親王といっしょに、敵の中堅(ちゅうけん)をめざして突き進んだ。この戦は大変激しく、親王は御身に三箇所までも傷を負われたほどであった。武光は、馬が傷ついた上に、冑(かぶと)がさけたので、敵を斬ってその馬と冑を奪い、死を決してめざましく戦った。そのため、さすがの敵もささえきれずに敗れ退き、頼尚は本国筑前に逃げ帰った。世にこれを筑後川の戦というのである。
子孫つぎつぎに朝廷の御ためにつくした
武光は、なおも親王をいただいて筑前に進み、頼尚を走らせて大宰府に入り、さらに京都へ向かおうとしていたが、その後まもなく、亡くなった。せっかく勢づいてきた九州の官軍は、これからだんだん衰えていった。けれども、武光の子孫はなお長い間朝廷の御ために力を尽くした。肥後の菊池神社は、この菊池氏一族の忠臣をまつったお社(やしろ)である。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続き)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より Α‖萋鷭充掘‖利氏の僣上

(戻る)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より А‖萋鷭夙 足利氏の衰微

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より Α/瞭租傾弔藩採天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  /逝紂々調陲領鳳

◆大東亜戦争(太平洋戦争)の起こったわけ (完答)

◆仏教も乗っ取る、反日・フェミ・同和・在日朝鮮人 キチガイ勢力の猛威〜 部落差別につながるからと、廃止が進められる“お清めの塩”

◆親次第で自虐史観なんてどうにでもなる 〜 日本のおかげでアジア諸国の独立が早まった・・・そんなことで喜んでるのも自虐史観の亜種にすぎない

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』〜 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十五 北畠親房と楠木正行

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(戻る)
このサイトを読んでいただきさえすれば、戦前の歴史教育で教えられてたままの歴史学習が受けられます。掲載資料もすべて戦前の学習資料から。つまり、ここを見てるだけで、亡き先人たちと思いを一にして通じられるんです。私の心は誇り高い先人たちと共にあって、先人はきっと私を応援し続けてくれているという確信が私にはあるので、これだけのことを続けていくことが出来ます。つまらない本ばかりが流行り、胡散臭い連中が小金を稼ぎ、混迷を深める情報が氾濫する中、ムダなことに時間ばかり費やしていく現代ですが、本質にたどり着くにはとってもシンプルなことをやればいいだけ。だけど、そのシンプルなことをこれまで誰もやってない。これは偉大な作業だと信じてます。
また吉野朝の正当性を著した北畠親房の『神皇正統記』(詳しくは右画像クリック)は世界に名だたる名著であり、ドイツの學者 ハウスホーファーはダンテの『神曲』と並ぶ東西の偉大な書物と評してます。
尚、楠公夫人が正行をさとしたエピソードは有名で、楠木正成の首が足利尊氏から送られてきて、ショックを受けた子の正行が父の後を追って自決しようとしていたところ、お母様の楠公夫人に、今、死するのでなく、父への忠義をまっとうするよう戒められた場面になります。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学国史 第二十五 北畠親房と楠木正行

北畠顕家が戦死した
新田義貞が戦死する少し前に、北畠顕家(きたばたけあきいえ)もまた戦死した。さきに、顕家は、尊氏を九州に走らせてから後、ふたたび義良(のりよし)親王をいただいて陸奥に下り、霊山城(りょうぜんじょう)にたてこもっていたが、天皇が吉野に行幸をなさったことを知ると、また親王をいただいて京都へ向かい、所々で戦って敵を破った。けれども、その兵は、たびたびの戦にたいへん疲れて、都に攻め入ることが出来ず、顕家は和泉(いづみ)の石津(いしづ)で戦死したのである。時に、年ようやく二十一であった。
親房らが海路で東国へ向かった
こういうように、顕家や義貞らの忠臣がつぎつぎに戦死したが、後醍醐天皇は、御志いよいよ堅く、顕家の父 親房(ちかふさ)らにいいつけて、また義良親王をいただいて陸奥に下らせ、官軍の勢を取り戻させようとおはかりになった。親房らは、伊勢から海路で東へ向ったが、途中で大風にあい、親房の船は常陸に着き、親王の御船は伊勢に吹き戻されたので、親王はそのまま吉野へお帰りになった。
後醍醐天皇がおかくれになった
たまたま、天皇は御病におかかりになった。この時、まだ国々に朝敵がはびこって、世の中が騒がしいので、これをたいそう残念にお思いになりながら、とうとう行宮でおかくれになった。そこで、義良親王が御位をおうけつぎになった。第97代 後村上天皇と申し上げる。
親房が神皇正統記をあらわした
その頃、東国の武士はたいてい賊に味方していたので、親房は陸奥に進むことが出来ず、常陸の関城(せきじょう)で賊兵に囲まれた。親房は、昼夜 賊を討つ謀をめぐらしながら、そのひまひまに、神皇正統記(じんのうしょうとうき)をあらわし、「天照大神から後村上天皇に至るまでの御血統の由来を述べて、君臣の大義を明らかにした。そのうち、まもなく城も落ち着いたので、親房はのがれて吉野に帰り、これから楠木正行らと力を合わせて、ともどもに天皇をお助け申し上げた。
楠木正行が四條畷(しじょうなわて)で戦死した
正行(まさつら)は、さきに十一歳の時、桜井の駅で父に別れ、国に帰ってからは、よく父の遺言を守って、つねづね朝敵を滅ぼそうと心がけて、一生懸命に励んだ。ようやく成人してから後村上天皇にお仕えして、たびたび賊軍と戦って、これをうち破った。取分け、摂津の瓜生野(うりゅうの)の戦では、賊兵が大いに敗れ、先を争って逃げる時、あわてて川に落ちて流れるものが五百人余りもあった。正行は、これを見てたいへん気の毒に思い、部下の者にいいつけて、これを救わせ、一々親切にいたわって送りかえした。こういう有様で、官軍の勢はますます強くなって、今にも京都へ迫ろうとした。尊氏は大いに恐れ、高師直(こうのもろなお)にいいつけて、急ぎ大兵を率いて正行に当らせた。そこで、正行は、ただちに一族 百四十人ばかりを連れて、吉野にまいって天皇に拝謁し、また後醍醐天皇の御陵に参拝して御暇乞(いとまごい)を申し、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に一族の名を書きつらねて、その末に、

かへらじと かねて思へば梓弓、なき数にいる 名をぞとどむる。

という歌をしるし、死を決して河内に帰り、賊軍と大いに四條畷で戦った。この時、正行はどうかして師直を討ち取ろうと考え、たびたびその陣に迫ったが、身に多くの矢きずを受け、力もつきはてたので、とうとう弟の正時と刺しちがえて死んだ。時に、正行は年ようやく二十三であった。
正行の忠孝両全(両全とは、君主への忠義と両親への孝行をどちらも果たすこと)
前年、正行に救われた賊兵は、深くその恩に感じ、正行に従ってこの戦でことごとく討死した。実に正行のような人こそ、勇も仁もある立派な武士で、忠孝の道を全うした人といわねばならぬ。こうして、楠木氏は正行の死んだ後も、その一族は、皆、真心こめて長い間、朝廷の御ためにはたらいた。今は、四條畷神社に正行をまつってある。

親房がなくなった
この後は、親房がひとり官軍の中心となって、大いに忠義を尽くしたが、まもなく病にかかってなくなったので、これから官軍の勢はいよいよ衰えるようになった。摂津の安倍野神社や岩代の霊山神社に、親房父子をまつってある。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続き)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜

(戻る)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より Α‖萋鷭充掘‖利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より А‖萋鷭夙 足利氏の衰微

◆昨年の国内旅行から 〜 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆本物の“大和撫子”入門 〜 我の否定、徹底した自己犠牲精神 新渡戸稲造『武士道』より

◆日本女性の魅力を引き出す、着物での美しい所作、歩き方 〜 映画『忠臣蔵』より

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! 〜 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?

◆霞ヶ浦 特攻隊のふるさと 土浦(阿見) 予科練跡巡り
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十四 新田義貞

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(戻る)
(尋常小学国史より)第3回は、楠木正成と並び、後醍醐帝の吉野朝(南朝ではなく吉野朝が正しい呼び方。この時代は南北朝時代でなく、吉野時代と戦前まで呼ばれていた)を代表する忠臣 新田義貞。吉野側武士の事実上の統領のような存在でしたが、戦後の現代では楠木正成と仲が悪かったとか、足利尊氏に比べて人望がなかったとか、いろいろ言われたりしてますが、そりゃあ、武家政治の利よりも後醍醐帝への忠をとる吉野朝側の高貴な忠君武将なのですから、天皇を無視して武家政治をチラつかせる足利になびく賊軍武士どもからの評判が芳しくなかったのは当然。「武士は金と利(褒美など)のためだけに動いてた」なんてのたまう戦後の唯物論 歴史学者どものデタラメ妄言はすべて捨て去って、鎌倉倒幕に最も功績があり、後醍醐帝への忠義を全うした華麗な吉野朝側武士を代表する一人としてしっかり覚えておきましょう。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学国史 第二十四 新田義貞(にったよしさだ)

名和長利が戦死した
湊川の戦に、新田義貞も敗れて京都に退いたので、天皇は再び比叡山へ行幸をなされ、尊氏は進んで京都に入った。官軍は、これを取り返そうとしたが、失敗して、名和長利らは戦死した。長年は、今、伯耆(ほうき)の名和神社にまつってある。
後醍醐天皇が吉野に行宮をお定めになった
尊氏は京都に入ると、賊の名をさけるために、豊仁(とよひと)親王を立てて天皇と申し上げていた。けれども、ほどなく、偽って朝廷に従うように見せかけ、後醍醐天皇に京都へおかえりなさるようにお願い申し上げた。天皇は、かりにその願をお許しになって、京都におかえりになったが、まもなく神器を御身にそえて、ひそかに吉野に行幸をなされ、行宮をここにお定めになった。
義貞が北国に向った
さきに、天皇は、比叡山の行宮で、義貞を召して、北国におもむいて回復をはかるよう、おぼせつけになった。義貞 涙を流して感激し、すぐ一族のものと一緒に、皇太子 恒良(つねなが)親王と皇子 尊良(たかなが)親王とをいただいて、北国に向かった。途中、木目峠(きのめとうげ)を越えたが、折あしく吹雪がはげしくて行軍(こうぐん)の苦しみは非常なものであった。取分け、河野(こうの)の一族は、にわかに敵に出あったので、戦おうとしたが、馬は雪にこごえて進まず、兵士は指をおとして弓を引くことが出来ず、進退きわまって、主従三百人余り、一人も残らず討死(うちじに)した。
義貞はやうやう越前の敦賀(つるが)に着き、金崎城(かねがさきじょう)にたてこもった。ところが、ここもほどなく賊軍に囲まれて、城が危なくなったので、子の義顕(よしあき)を残して城を守らせ、自分は杣山(そまやま)に行って兵を募った。けれども、その間に、兵糧がなくなって、城がおちいり、尊良親王は義顕らと共に御自害なさった。皇太子は、捕らわれて京都へ送られなさったが、とうとう尊氏のために害せられたもうた。
義貞が藤島で戦死した
義貞は、こういう不幸せにあっても、少しもくじけず、杣山から奮いたって、たびたび賊軍と戦ってこれを破った。その後、藤島の戦に賊の勢が強くて、官軍は今にも敗れそうになってきたので、わづかに五十騎を従えて、急いでこれを救いに行った。途中、三百騎の敵兵に出あい、大いに奮戦したが、乗っていた馬が、矢にあたって泥田の中に倒れたので、義貞はすぐ起きあがろうとすると、その時、運わるく、飛んで来た一筋の矢が額にあたった。さすがの義貞も、もはやこれまでと覚悟して、自ら首をはねて、いさぎよく死んだ。時に、年三十八であった。これから、北国の官軍は、中心とたのむ大将を失って、全く衰えてしまった。今、福井の藤島神社には、義貞がまつられている。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続き)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

(戻る)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

(始めから)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

◆7歳子供 ピアノ弾き語り 軍歌編 〜 『露営の歌』

◆性善説的な視点に立った教育勅語、「修身」道徳教育の補完としては、「毒をもって毒を制す」のマキアベリズムこそ最適

◆見ておきたい戦争映画の名作

◆子供向け 安心できる人形劇ドラマ おすすめセレクション

◆子供の乳幼児期に読ませてた絵本 セレクション 〜 赤ちゃんにもオススメ!

◆終戦日に寄せて。世界各国が自国のため戦ったことを歌っている、ドノヴァンの『ユニヴァーサル・ソルジャー』について
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十三 楠木正成

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m
(始めから)
(尋常小学国史より)第一回目をお読みになればおわかりの通り、今教えられてる歴史はデタラメ。目先の近代史ばかりが本質攪乱のためか騒がれてるが、実際は古代そして建武の中興を主とした中世などが特に輪をかけてひどい。よくある「新しい歴史」だの「経済から見る」だの……他、次々と出される歴史関連書の類も時間のムダ、お金のムダ、あの種の本も読んではいけない。つくる会の教科書なんてのもまるで使い物にならない。新しいものを追い続けるのでなく、本物は過去の本にあります。まずは昔の歴史教科書を読めばそれですべて足りるんです。やるべきことの答えはとってもシンプルなのに、誰もそれをやろうとしない、それをやりましょうとも誰も言わない。連中にとってそれでは儲からないから。そして日本人が本質的問題に気づかれても困るから。だから私はここを見られてる方にはそれが出来るようやっていこうと。今じゃ戦前の教科書を誰も知らない。何も知らないのにああでもないこうでもないと無駄な論議ばかりやらされてる。
昔の教科書は歴史の本当のおもしろさも知れる。それらを土台に独自に掘り下げていけばいい。今の歴史教育は唯物的、道義もない、ゆえに日本人の心を育てるものが何もありません。戦後の無味乾燥な歴史教科書でいくら勉強しても、どんなに高度な歴史の受験勉強しようとも何も学べないんです。

第二回の今回は、天皇への忠義をまっとうした武将として戦前は最も崇敬されていた英雄 大楠公。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学国史 第二十三 楠木正成(くすのきまさしげ)

尊氏の野心
鎌倉幕府が倒れて政権が朝廷にかえってから、朝廷の御威光は再び盛んになった。けれども、武士の中には、長い間幕府の政治になれていたため、君臣の大義を忘れ、朝廷の賞罰に不平を持ち、かえって武家の政治をよろこぶものが少なくなかった。足利尊氏は、かねがね将軍になりたいと望んでいたので、これら不平の武士を、ひそかに手なづけていた。
護良親王が害されなさった
護良(もりなが)親王は、早くも尊氏の野心をさとって、これを除こうとせられたが、かえって尊氏に讒言(ざんげん)させられ、これがために鎌倉に送られておしこめられたもうた。この頃、尊氏の弟の直義(ただよし)がその地を治めていたが、たまたま北條高時の子の時行(ときゆき)が兵を起して、鎌倉を取り戻そうとした。この戦に、直義は敗れて鎌倉を逃出したが、その時、おそれ多くも人をやって親王を害したてまつった。
鎌倉宮
親王の御年は、時にまだ二十八であった。鎌倉宮(かまくらのみや)は、親王をおまつり申し上げたお社(やしろ)である。
尊氏がそむいた
尊氏は、征夷大将軍となって東国を治めたいと、朝廷にお願い申したが、まだその御許しもないうちに、勝手に鎌倉に下って時行をうち破り、まもなく、その地に拠って朝廷にそむいた。天皇は、義貞をやって、これをお討たせになった。ところが、官軍は竹下(たけのした)や箱根の戦に敗れて退いたので、尊氏は、直義と共に、京都へ攻上って来た。天皇は、これを避けて、しばし比叡山にお出ましになった。けれども、この頃、天皇の御子 義良(のりなが)親王をいただいて奥州を守っていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)も、また朝廷の御命令を受け、親王のお供をして、兵をひきいて京都へ上って来た。
尊氏兄弟が九州に走った
そうして、正成や義貞らと力を合わせて大いに賊軍を破り、尊氏や直義を西国へ走らせたので、天皇はふたたび京都におかえりになった。
尊氏兄弟が京都に攻上って来た
尊氏は、九州にいて勢いを盛り返し、直義と共に海陸両軍をひきいて、京都へ攻上って来た。そこで、義貞がこれを兵庫で防ごうとしたが、賊の勢がたいへん盛なので、天皇は、正成をやって、義貞を助けさせられることになった。この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰えるのを待って、一度にうち滅ぼそうという謀を建てたが、用いられなかった。それ故、正成は、おほせに従って、ただちに京都を立った。
正成が桜井の駅で正行をさとした
途中、桜井の駅に着いた時、かねて天皇からいただいていた菊水(きくすい)の刀を、かたみとして子の正行(まさつら)に与え、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した後は、天下は足利氏のものとなろう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあっても、自分に代わって忠義の志を全うしてもらいたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。それから、進んで湊川(みなとがわ)に陣を取り、直義の陸軍と戦ったが、その間に、尊氏の海軍も上陸して、後から攻めかかって来た。正成は大いに奮戦した。けれども、小勢(こぜい)で、かように前後(まえうしろ)に大敵を受けてはどうすることも出来ず、部下はたいてい戦死し、正成も身に11個所の傷を受けた。
正成が湊川で戦死した
そこで、もはやこれまでと覚悟して、湊川の近くにある民家にはいって自害しようとした。この時、正成は弟の正季(まさすえ)に向って、「最期にのぞんで、何か願うことはないか。」とたずねた。正季は、ただちに「七度(ななたび)人間に生まれかわって、あくまでも朝敵をほろぼしたい。ただそればかりが願である。」と答えた。正成は、いかにも満足そうににっこり笑い、「自分もそう思っているぞ。」と言って、兄弟 互いに刺しあって死んだ。時に、正成は年四十三であった。
湊川神社
今、正成をまつった神戸の湊川神社のあるところは、正成が戦死した地で、境内には、徳川光圀(とくがわみつくに)の建てた「嗚呼 忠臣 楠子之墓」(ああ ちゅうしん なんしのはか )としるした碑がある。

古今 忠臣のかがみ
実に正成は古今忠臣の鏡である。わが国民は、皆、正成のような真心を以て、大いに御国のためにつくさねばならぬ。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続き)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  第二十四 新田義貞

(始めから)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  ‖萋鷭銃鵝仝綢藐鐡傾

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世〜近代 【目次】

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ァ‖萋鷭熟察ゝ特喇雜

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より Α‖萋鷭充掘‖利氏の僣上

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蘇我氏の無道

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆戦前の絵本から 〜 真実の日本軍。最強だったその勇姿

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる 〜 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆『サスケ』の父に見る子育て 〜 理想的な父親像と男を立てる女たち

◆特攻隊の青春群像 映画『決戦の大空へ 』と、フィリピンの神風記念碑
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より
第二十二 後醍醐天皇

人気ブログランキングへ ←はじめにクリックお願いします m(__)m

戦後のド腐れ歴史教育に染められた日本中を震撼させた、百年前、戦前の歴史教科書準拠参考書の神代・古代史の掲載に続き、お待たせしておりましたが、今回は戦前の国定歴史教科書 尋常小学国史から掲載していきます(昭和10年版を採用。もちろん図表類も戦前の学習資料から取り入れます。現代日本人にわかりやすくするため、仮名遣い表記は現代に近づけます)。

戦前の子供たちが学び、現代日本ではまるで教えられていないものに、建武の中興や後醍醐帝の正当性があります。なのでもちろん、本日、第一回目のテーマはこれです。これを知らずして戦前の人々の思いは理解できません。今の左翼史観では南朝と呼ばれる吉野朝の華麗なる忠臣たちが続々登場する時代、逆賊 足利尊氏の不逞、現代と全く異なる戦前歴史教育の一大キーポイントであり、後に天皇が、武士(徳川幕府)から政権奪回した明治維新達成の本来の意義につながります。また今では建武の新政と教えられているものも、天皇陛下あっての日本という見方からすれば、建武の中興が正しいのです。そして戦後、政権は天皇の元から再び奪われ、今また日本は危機を迎えており、再び取り返さねばならない時が来ているのです。

【「尋常小学 国史より」シリーズ 目次はコチラ】

◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆
尋常小学国史 第二十二 後醍醐天皇

天皇が政権を取り戻そうとなさった
弘安の役から40年ばかりたって、第96代 後醍醐天皇が御位にお即きになった。天皇は、後宇多天皇の御子で、聡明な御生まれつきであらせられたから、お小さい時から、御祖父の亀山上皇にたいそうかわいがられていらっしゃった。また学者を召して、広く学問をお修めになり、政治に御心をお用いになって、早くから鎌倉幕府のわがままなふるまいをお怒りになっていたから、後鳥羽上皇の御志をついで、政権を朝廷に取り戻そうとお考えになった。
北條高時
この頃、幕府では、北条時宗の孫の高時が政治を行っていたが、おろかな生まれつきで、昼となく夜となく宴会を催したり、数千匹の犬を集めて、そのかみ合いを見物したりして、少しも政治に力を入れなかったため、たいへん人望を失った。
天皇が笠置山に行幸をなさった
そこで、天皇は、かねてからの御志をしとげるのはこの時であると、ひそかに武士をお召しになった。ところが、この事が、いつのまにか、鎌倉に漏れ聞こえたので、高時は大いに驚き、急に兵を京都へ上がらせて来た。天皇は、これをお避けになって、山城の笠置(かさぎ)山に行幸をなさった。
楠木正成が行在所にまいった
河内の国 金剛山の麓に住んでいた楠木正成は、天皇の御召によって、まっさきに笠置の行在所(あんざいしょ)にまいった。そうして、天皇に拝謁して、「賊軍がどんなに強くても、謀をめぐらせば、これをうち破ることは、さほどむづかしくはありせん。けれども、勝敗は軍の習(ならい)でありますから、たまには敗れることがあっても、決して御心配下さいますな。正成一人なお生きているとお聞きなさっている間は、御運はいつかお開けになるものと、御心を安らかにしていらっしゃるようお願い申します。」と力強く申し上げた。それから、河内に帰って赤坂に城を築き、天皇をお迎え申そうとした。が、まもなく賊軍が笠置をおとしいれてしまった。
天皇が隠岐におうつされになった
天皇は、藤原藤房(ふぢふさ)らを従がえられ、御徒歩(かち)で笠置をおのがれになったが、その途中の御難儀は、まことにおそれ多く、昼はかくれ、夜になると、あてもなくさまよわせられる御有様であった。お供の藤房らは、三日の間も、食事をしなかったため、身も心もすっかり疲れはてて、しばらく木かげに休んでいた。その時、こずえの露が落ちて、天皇の御衣をぬらしたので、天皇は、

さしてゆく 笠置の山を出でしより、
  あめが下にはかくれがもなし。

とおよみになった。藤房は、もったいなさに、涙をおさえながら、

いかにせん 頼むかげとて立ち寄れば、
  なほ袖ぬらす松のしたつゆ。

とお答え申し上げた。まもなく、天皇は、賊兵に捕らわれて、隠岐の島におうつされになった。
護良親王が吉野にたてこもられた
笠置が破れた後、賊軍は赤坂城を囲んで、とうとうこれをおとしいれてしまった。正成は、そこをのがれて、しばらく隠れていたが、ほどなく、ふたたび兵を集めて、城を金剛山の千早(ちはや)に築いた。天皇の御子 護良(もりなが)親王もまた、吉野にたてこもって、義兵を四方にお募りになった。けれども、すぐ賊の大群がおし寄せて来たので、吉野がまず陥った。この時、村上義光が親王の御鎧をいただき、これを着て、自ら親王と偽って自害したので、親王はやっと危ない難をおのがれになった。
正成が千早城にたてこもった
一方、正成は、わずかの兵を率いて千早城にたてこもり、さまざまに謀をめぐらして、たびたび賊軍を悩ました。この間に、国々では、親王の御命令を受けて、勤王の軍を起すものが多くなった。
天皇が伯耆に渡って名和長年をお召しになった
天皇は、この有様をお聞きになると、ひそかに隠岐から伯耆(ほうき・今の鳥取県西部)に渡って、その地の豪族 名和長年(なわながとし)をお召しになった。長年は、天皇の仰せを受けて大いに感激し、ただちに一族を呼び集めてこの事を伝えた。皆いずれも奮いたって、「この度、天皇の仰せをいただいたことは、この上もないわが家の名誉である。天皇の御ためには、たとい屍を戦場にさらしても、名を後の世に残さねばならない。急いでお迎えにまいろう。」といって、大急ぎで行宮を船上山(せんじょうさん)に造り、ここに天皇をお迎えして、兵を集めてお守り申し上げた。

足利尊氏らが六波羅をほろぼした
そこで、天皇は、大勢の大将をやって、六波羅を攻めさせられた。高時は、これを聞いて大いに驚き、足利尊氏らにいいつけて、急いで兵を率いて京都へ上らせた。ところが、尊氏は源義家の子孫であるから、かねがね北條氏の下にいることを不平に思っていた。それ故、この時にわかに朝廷に従い、勤王の人々と力を合わせて、賊軍を討ち、とうとう六波羅をおとしいれた。よって、天皇は、さっそく船上山をお出ましになり、京都へお向いになった。
新田義貞が鎌倉をおとしいれた
新田義貞もまた、義家の子孫である。さきに、賊軍に従って千早城を攻めたが、前々から、朝廷にお味方しようと考えていた。そこで、ひそかに護良親王の御命令を受けると、病と偽って上野(こうつけ)に帰り、義兵を起した。そうして、進んで鎌倉を攻め、稲村崎(いなむらがさき)からうち入って、高時らを破って北條氏を滅ぼした。頼朝以来140年餘り続いた鎌倉幕府はここに滅びてしまった。
天皇が京都におかえりになった
船上山から京都へ向わせられた天皇が、兵庫にお着きになった時、義貞の使が来て、鎌倉を平げたことを申しあげた。正成も、また、部下を率いて兵庫に来た。天皇は、正成を御そば近くにお召しになって、大いにその手柄をお褒めになり、正成を前躯(ぜんく)として京都にお帰りになった。時に紀元1993年(元弘3年)であった。
建武の中興
これから、天皇は、御自ら天下の政治を行わせられることになった。そうして、護良親王は、その御手柄によって、征夷大将軍におなりになり、尊氏・義貞・正成・長年らも、皆それぞれあつく賞せられた。こうして、政権は再び昔のように朝廷にかえった。この時、年号が建武と改ったので、世にこれを建武の中興というのである。

人気ブログランキングへ 人気ブログランキングへ ← 応援クリック宜しくお願いします m(__)m

-----------------------------------------------------------------------------
(続き)◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ◆‖萋鷭住亜‘鑢收祇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より 中世〜近代 【目次】

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より  第二十四 新田義貞

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より ぁ‖萋鷭集沺)免親房と楠木正行

◆真実の日本の歴史 〜 戦前教科書 尋常小学 国史より А‖萋鷭夙 足利氏の衰微

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 〜 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  大化の新政

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  聖徳太子 支那へ使節派遣

◆戦前の絵本から 〜 真実の日本軍。最強だったその勇姿

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ァ…鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ◆/隻霤傾

◆旧皇室(旧宮家)の復活について、どう思われますか? 〜 GHQ占領下、11宮家51名が皇族から離脱させられましたが・・・
トップ | 真実の日本の歴史 中世〜近代 尋常小学国史より | permalink | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
←もひとつクリック!