日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
崇神天皇と垂仁天皇

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(2016.11.10)  (戻る)
『最新 日本歴史解釈』第三章、今回は神武天皇から十代目に当たる、四道将軍らによる諸国鎮撫で皇威を拡張した崇神天皇、そして殉死を禁ずる発令が至った経緯など、とっても生々しく興味深いエピソードもある十一代目 垂仁天皇の治世のお話。
尚、建国した神武帝以後の開花天皇の代までの8代分の記録がまるで残っていないのですが、これは孝徳天皇の元年、(大化の改新で)息子 蘇我入鹿を殺され追いつめられた蘇我蝦夷が大邸宅に火を放ち、当時は存していた正史たる『天皇記』や『国記』のような典籍が焼けてしまったからなんですね。完全焼失する前、焼け残っていた『国記』の一部を船恵尺(ふねのえさか)がすばやく取り出し、中大兄皇子に奉納します。その後、歴史記録保存の必要性を感じた天武天皇が群臣に勅し、それら焼け残っていた史書と他にあった『帝紀』等の史書を付け合わさせ、驚異的な記憶力でそれら典籍を誦習した稗田阿礼の誦を元に、太安万侶によって編纂された古事記が普及していったわけです。その二人の当時の思い起こされるご様子、何と美しい音の響き、神々しいお姿なのでしょう。だから今の歴史学者が言うような、記録の残っていないこの期間の天皇史なんて嘘っぱちだなんて言い分こそ、テキトー論のデタラメなのです。神武天皇以後、開花天皇までの歴史は確実に存在します。記録のある部分は正確に残し、わからない部分を勝手に作ることが出来なかったからこそ、その間が空白になってしまったのです。

榊 〜 古代歌謡の世界 より
古代日本、稗田阿礼の謡はどのように奏でられていたのか、思いを馳せてみましょう。この曲は『日本古代歌謡の世界』(東京楽所)というCDからです(詳しくは右画像クリック)。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

神器の奉還
神武天皇の後、御八代の政治―崇神(スジン)天皇の御即位―崇神天皇の御敬神―八咫鏡(やたのかがみ)と叢雲劔(むらくものつるぎ)との奉遷(ほうせん)―笠縫(かさぬい)の邑(むら)―皇女 豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命の奉仕―模造の鏡劔と八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)との安置―御歴代の御伝承―神宮・皇居の別。


四道将軍の派遣
皇族を四方に派遣―大彦命(オオヒコノミコト)は北陸―武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)は東海―吉備津彦命(キビツヒコノミコト)は西道―丹波道主命(タニハノミチノヌシノミコト)は丹波(タニハ)―四道将軍の称―将軍各地の人民を撫(ぶ)し朝命に従わざる者を討つ―皇子 豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の東国を鎮撫(ちんぶ)―皇威の拡張。


農事の奨励
崇神天皇の民業御注意―池溝の開鑿(かいさく)―造船―人口の調査―調物(みつぎ)の賦課(ふか)―弓弭(ゆはず)の調と手末(たなすえ)の調(課税の始)―家富み物足る―はつくにしらす天皇


農事の奨励
垂仁(スイニン)天皇の御即位―天皇民事に御注意―池溝の開鑿(かいさく)800余所―田地の開拓―産業益興る。

皇大神宮
垂仁天皇の御敬神―八咫鏡と叢雲劔とを五十鈴川上に奉祀―皇女 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の奉仕―御鏡は天照大神の御霊代(みたましろ)―内宮(皇大神宮)。


殉死の禁
日葉酢媛(ヒハスヒメ)皇后の御葬―殉死の禁―野見宿禰(ノミノスクネ)の建議―土偶を殉死に代う―埴輪(はにわ)と古墳―上古の風俗。


〇神武天皇後の御八代
第一代神武天皇の後、綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)の御八代を経て、第九代崇神天皇の御即位に至る迄、凡そ560余年(日本書記による)の年月を数う。而(しか)して此の間、天皇の御年、皇后・皇子女の御名、皇都・山陵の名、即位・崩御等の年月日を伝うるの外なれば、歴史事情を知るに由なし。恐らくは此の御八代の間の事実はこれ伝を失えるものなるべし。
〇崇神天皇の御敬神
上古の政治は神祇(じんぎ)を祭るを以て重なるものとす。天皇聴敏(ていびん)にましまし長じて心を政治に用い給い、重く神祇(ジンギ)を崇め給う。即位の5年疫病流行し、為に死するもの多くして人民流浪し背くものさえあるに至る。天皇乃(すなわ)ち罪を神祇(ジンギ)に請い給い、皇女 豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)をして天照大神を倭の笠縫(大和磯城郡織田村〈やまとしきぐんおだむら〉)に祭らしめ、翌年 大田田根子(おおただねこ)をして大物主の神(大国主命のこと)を祭らしめ、且(かつ)八十萬神(やおよろずのかみ)を祭り、天社・国社及び神地(神領)神戸(神領の民戸)をも定め給う。是れに於いて疫病始めてやみ、国内よく治まり、五穀成りて人々富むに至る。
〇八咫鏡と叢雲劔との奉遷
古来三種の神器は、常に宮殿に泰安せらる。崇神天皇は其の殿を同じくせるは、神の威を瀆(けが)さんことを畏れ給い、齋部氏(いんべうじ)をして新に鏡・劔を鋳造せしめ、天皇御守護の御璽(みしるし)とし、三種の神器中の八咫鏡と叢雲劔とは、笠縫の邑(むら)に移し、皇女 トヨスキイリビメノミコトを命をして祭らしめ給う。次の垂仁天皇もまた敬神の御心深くましまし、更に笠縫の邑(むら)より、神鏡・神劔を伊勢の五十鈴川上に遷し、皇女 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をして祭らしめ給う、是れ内宮なり。
〇四道将軍と其の派遣
崇神天皇は其の十年に民を導くは教化に在り、使を四方に遣わして朕が規則を知らしめんと詔し給い、大彦命(オオビコノミコト)を北陸に、武渟川別命(タケナカワワケノミコト)を東海に、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)を西道(山陽道)に、丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)を丹波(山陰道)に遣わし、教を受けざるものを伐たしめ給い、共に印綬(いんじゅ)を授けて将軍とし給う。これを四道将軍という。かくて大彦命(オオビコノミコト)と武渟川別命(タケナカワワケノミコト)とは、会津に至りて相会(あいあ)したり。翌11年四道将軍各帰りて不服のものを平定せし状を奏上せり。
〇豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)
命は崇神天皇の皇長子なり。天皇の48年第三皇子 活目尊(イタメノミコト)を立てて皇太子(垂仁天皇)とし、トヨキイリヒコノ命をして東国を治めしめ給う。是れより命の子孫、東国を鎮撫し給うに至る。上毛野(カミツケノ)下毛野(シモツケノ)両氏は此の命の後裔(こうえい)なり。
〇池溝の開鑿(かいさく)
崇神天皇は其の62年に、農は天下の大本にして人民の恃みて生活する所なりと詔し給い、河内の狭山の地、水少なくして人民農事を怠るを憂い給い、多く池溝を開き、尋で依綱池(ヨサミの池・摂津東成郡)苅坂池(カリサカの池・所在未詳)反折池(サカオリの池・所在未詳)を作り給う。垂仁天皇また農事に心を用い給い、其の35年に高石池(タカシの池和泉泉北郡)茅渟池(チヌの池・和泉泉南郡)を作り、尋で狭城池(サキの池・大和生駒郡)迹見(トミの池・大和磯城郡)を作らしめ、諸国に800余の池溝を開かしめ給う。
〇課税の始
崇神天皇の12年始めて人口を調査し、男には弓弭(ゆはず)の調とて、狩猟の獲物に課し、女には手末(たなすえ)の調とて、手業を課せらる。是れ実に課税の書に見えたる始とす。
〇造船の始
崇神天皇の17年、船を天下の要用なるも、海辺の民船なくして渡るに苦しむこと甚だしと詔し給い、諸国に命じて船を造らしめ給う。諸国に造船を命ぜられし始なりとす。
〇はつくにしらす天皇
神武天皇を始馭天下之(ハツクニシラス)天皇と称し奉り、崇神天皇も亦(また)御肇国(ハツクニシラス)天皇と称し奉る。此の意義は、未だ服せざりし遠き国々までも、始めて皇化にゆきたらはして、天下悉(ことごと)く太平となりし御代を称し奉るにあり。蓋(けだ)し神武天皇は、大和地方を平定し給いて人民を安んじ給い、崇神天皇も四道将軍を遠方に派遣し、不服のものを平定して皇威を輝かし給い、ヤマト朝廷は漸次盛となりしより、かく称し奉るに至りしなるべし。
〇殉死の禁
垂仁天皇の28年、同母弟 倭彦命(ヤマトヒコミコト)薨(こう)じ給う。其の葬むるの日に当たり、近習(そばのもの)のものを集め、悉(ことごと)く生ながらに陵域(陵のまわり)に埋め立つ。埋められしもの数日死せずして昼夜泣きよぶ。其の死するや屍くさり大鳥聚(あつま)りてこれを食う。天皇其の泣きよぶの聲を聞きて大に痛み給い、古風といえども今より止めんとのたまいてこれを禁じ給う。
〇野見宿禰(ノミノスクネ)と埴輪
垂仁天皇の32年、皇后 日葉酢媛命(ヒハスヒメノミコト)薨(こう)じ給い、将にこれを葬らんとす。天皇殉死の不可を知り給いしも、此の度の埋葬に当たりては、如何せんと憂いてこれを群臣に問わせ給う。出雲に野見宿禰(ノミノスクネ)あり、かつて勇悍なる当麻蹴速(タギマノクエハヤ)と力をくらべ、これに勝ちて賞せらる。此の時 ノミノスクネ、陵墓に生人を埋め立つるは、良にあらずして後世に伝うべからず、更に便事を奏し上らんとて、使を出雲に遣わして其の土部(ハシベ)百人を召し、自らこれをとくし、埴(はに)を取りて人馬及び種々の物の形を作り、これを天皇に上る。天皇 大に喜ばせ給い、是れより土物を陵墓に立てて生人を埋むるに代ることを後世の規則とし給う。やがて其の土物を以て、始めて皇后 ヒハスヒメノミコトの墓に立て給う。ノミノスクネ厚く賞せられ、姓を土部臣(ハシベノオミ)と改めらる、是れよりノミノスクネの子孫は、常に天皇の御葬式にあづかるに至る。
〇上古の風俗
上古に於いてはすこぶる祭祀を重んじ、其の敬神の俗は自ら忠孝の念と尚武(しょうぶ)の風と盛にす。面して人々 上衣を筒袖にし、これに褌・裳(も)をつけ、腰に刀劔を帯び、頭にくしかづら、頸に頸珠(くびたま)、手に手纏(たまき)をなすもあり。其の衣服の材料は、麻布・楮布(こうぞふ)などを用いること多し。また男は髪をみづらに結び、女はこれを後にたれ、或は髷(まげ)にも結ぶ。家屋は木造して、地を掘りて柱を立て、茅にて屋根をふき葛にて結びたり。
〇崇神天皇の事蹟
天皇の実蹟は、前に記したる天皇の敬神、八咫鏡と叢雲劔との奉遷、四道将軍の派遣、豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の差遣、池溝の開鑿(かいさく)、課税の始・造船の始 等の外に、天皇の御代に任那(みまな)の蘇那曷叱知(ソナカシチ)来りて鎮将を請い、塩乗津彦(シオノリツヒコ)の渡韓することとなり、又神武天皇の大業を更に拡張し給いしを以て、世人(せじん) 天皇を御肇国(ハツクニシラス)天皇 と称へ奉りしこと等なり。


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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より Α/瞭租傾弔藩採天皇 顕宗 仁賢 両天皇 

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
神武天皇

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(2016.10.20)  (始めから)
『最新 日本歴史解釈』第二章、今回は神武帝が日向を出発しての東征による長髄彦(ナガスネヒコ)らとの戦いから大和までの平定、(かしはら)橿原宮の造営と神武天皇 即位の大礼(日本建国)や國造・縣主の地方官任命等までになります。
同じ妻木さん作成の学習年表、及び神武天皇の即位式の映像もコチラに掲載してますので、ご参照くださいませ。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

天皇の御東征
神武(ジンム)天皇は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御曾孫−天皇初め日向に居給ふ―東方諸國の酋長(しゅうちょう)―各割拠して互に争う―東方平定の御計策―皇兄 彦五瀬命(イツセノミコト)と謀議―皇兄及び皇子と共に東征―御東征の順路―高島宮(タカシマノミヤ)―皇軍の浪速(ナニワ)到着。


大和地方の平定
登美(トミ)の長髄彦(ナガスネヒコ)―国見(クニミ)の八十梟師(ヤソタケル)― 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)―ナガスネヒコ ニギハヤヒノミコトを奉じて皇軍を防ぐ― イツセノミコトの負傷―皇軍、路を転じて大和に向かう―道臣命(ミチノオミノミコト)・大久米命(オオクメノミコト)の嚮導(きょうどう)―金鵄勲章の由来―ヤソタケル・土蜘蛛(ツチグモ)等の土賊―ナガスネヒコの誅―土賊の服従―大和地方の平定。


御即位の大禮(たいれい)
畝傍山(ウネビヤマ)の東南、橿原(カシハラ)に奠都(てんと)―橿原の神宮―御即位の大禮―五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の御冊立―紀元元年と紀元節―論功行賞―祭政一致(さいせいいっち)―中央政府の組織―天種子命(アメノタネコノミコト)・天富命(アメノトミノミコト)・可美眞手命(ウマシマデノミコト)―國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等の地方官―皇祖天神を鳥見山(トミノヤマ)に祭る。

 

〇東方諸国の状
天孫既に降臨し給いし後、御子孫代々西辺に居給いしを以て、東方の遠き地は未だ皇澤(こうたく)にうるおわず、村々に長ありて各疆(サカイ)を分かち、これに拠りて互に相争い、人民為に業に安んぜざりき。天皇かつて此の東方にて政治をなすに美しき地あるを聞き給いしかば、此の苦しめる人民を安んぜんとし、皇兄・皇子どもとはかりて東方平定のことを決し給う。
〇神武天皇御東征順路
皇軍日向を出でて豊予海峡をすぎ、豊前の宇佐及び筑前の遠賀川口をへて安芸の埃(エ)の宮(所在未詳)に至り、翌年備前の高島の宮(備前見島湾口高島か)に出る。天皇此の宮に居給うこと三年、其の間に戦船をそろえ兵食をそなえ、将に一挙に東方を平らげんとし給う。かくて皇軍は海上より進みて難波埼(大阪市の南方より大阪城辺に至れる高地の古称なり)に至る。此の沿岸の潮流はやきを以て、此の國を浪速(ナミハヤ)と名づけらる。今の大阪地方なり。此の浪速(ナミハヤ)をなまりて難波(ナンバ)と云い、又浪速を一に浪華(ナニワ)とも書するに至る。次いで皇軍浪速より東方生駒(イコマ)山をこえて、大和に入らんとせし時、大和の登美(生駒郡富緒村)のナガスネヒコこれを孔舎衛坂(くさえざか)(クサカ河内中河内郡)に逆へ撃ち、皇軍利あらず。皇兄 イツセノミコト負傷し給う。天皇軍を返し更に紀伊に至り給いし時、命軍中に薨(こう)じ給う。皇軍やがて熊野(紀伊)に至りしに、山中行くべき道なし。天忍日命(あめのおしひのみこと)(コチラ参照)の曾孫 道臣命や、八咫烏の嚮導(きょうどう)によりて、わづかに大和の吉野川筋に出て、宇佗郡より西に向かいて大和の平野に出づること得たり。
〇長髄彦(ナガスネヒコ)
ナガスネヒコは登美の酋長なり。皇軍の来るを聞き、其の君とせる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を奉じてこれを逆へうつ。其の後、皇軍しきりに勝ち、ニギハヤヒノミコトまた大儀を覚りて皇軍に降らんとせしが、ナガスネヒコの性剛愎(ごうふく)にして物を解せず、ミコト即ちナガスネヒコを誅して帰順す。
〇国見の八十梟師(ヤソタケル)
八十梟師(ヤソタケル)は八十建とも書す。其の八十は数多きの意にて、師は威勢ありて猛勇のものを云う。其の国見岳(大和)に在るを国見のヤソタケルと云い、磯城(シキ大和)に在るを磯城のヤソタケルと云い、又熊襲(九州)に在るを熊襲八十梟師(クマソヤソタケル)と呼ぶが如し。
〇饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
ミコトは天神(天つ神)の子にして、早く天上より降れるものなり。ナガスネヒコに推され其の妹を娶りて可美真手命(ウマシマデノミコト)を生む。皇軍来るに及び、ナガスネヒコ 天神の子に両種なしとしてこれに抗し奉る。天皇すなわち天神の証を示し給いしも、ナガスネヒコなお剛腹(ごうふく)にして改むること能(あた)わず。ニギハヤヒノミコトよりてこれを誅し、其の衆と共に帰順す。天皇其の忠を賞してこれを用い給う。天皇 ウマシマデノミコトをして物部(武士)を統べしめ給い、子孫世々相ついで仕え奉る。物部氏の祖是れなり。
〇道臣命(ミチノオミノミコト)
初め日臣命(ヒノオミノミコト)と称す。天皇御東征の際、熊野の山路すこぶる険悪にして皇軍進むこと能(あた)わず。此の時ヒノオミノミコト其の部下を率いて路を啓(ひ)らき、八咫烏(ヤタガラス)の向かう所にまかせて進み宇陀(大和)に至ることを得たり。天皇其の忠勇を賞して、名を道臣(ミチノオミ)と改めしめ給う。かくて賊 兄猾(エウカシ)を討ち給うや、ミチノオミノミコトをして其の状を察せしめ、又大宴を設けて国見岳の余薫(よくん)を誘わしめ給う。天皇即位の翌年功を賞し給うに当たり、ミチノオミノミコトに宅を賜りて寵遇(ちょうぐう)し給い、又其の部兵をして畝傍山(ウネビヤマ)の附近に居らしめ給う。大伴氏の祖は此のミチノオミノミコトなり。
〇金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来
皇軍既に国見岳のヤソタケル及び賊兄磯城等を滅し遂にナガスネヒコに逼(せま)りしも、未だ勝つこと能(あた)わず、怱(たちま)ち天曇りて雨降り、金色の鵄(とび)飛び来たりて天皇の弓弭(ゆみはず)に止まる。是れより皇軍大いに振るい、ナガスネヒコまた戦うこと能(あた)わず、遂にニギハヤヒノミコトによりて誅に伏しぬ。此の金鵄(きんし)の瑞(しるし)は、即ち今日の金鵄勲章の由来なり。明治23年の紀元節に下し給える詔(みことのり)の中に「天皇戡定(かんてい)の故事に徴し金鵄勲章を創設し将来武功抜群の者に授興し云々」と見え、其の故事とのたまえるは神武天皇 大和戡定(かんてい)の時に霊鵄の瑞(しるし)ありしことと推し奉らるるなり。
〇土蜘蛛(ツチグモ)
土ごもりの約にて上古(じょうこ)に穴居(けつきょ)の夷族の猛く暴くして人を害(そこな)うものの称とも云い、又高尾張(大和)に在りし土蜘蛛が、身体短くして手足長く、あたかも短人に似たりと伝えられたれば、其の人種の形の蜘蛛に似たるものの名とし、他もこれになぞえて呼びしとも云う。
〇橿原神宮(かしはらじんぐう)
宮址(きゅうし)は、神武天皇の大和地方を平定し給いて後、宮殿を経営せしめ給いし地にして、今の大和高市郡畝傍山の東南に在り。明治22年、此の宮址を調査してここに橿原神宮を建て、神武天皇を奉祀(ほうし)す。社殿は京都御所の温明殿(うんめいでん)及び神嘉殿(しんかでん)を移して営みしなり。神宮は明治23年3月20日官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列せらる。
〇五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の冊立(さくりつ)
天皇既に即位の大禮(たいれい)を橿原宮に行わせ給い、貴族をえらびて皇后とせんとし給い、此れにイスズヒメノミコトを皇后に冊立し給う。皇后の父は大国主命の子 事代主命(コトシロヌシノミコト)にしてスサノオノミコトの孫に当らせらる。
〇紀元元年と紀元節
神武天皇即位の大禮(たいれい)を行わせ給いしは、辛酉(しんゆう)の年の正月朔日(さくじつ)にして、大正6年を去る実に2577年の昔に在り。正月朔日を太陽歴に換算して正に2月11日に当たる。明治5年11月、此の即位の年を以て我が紀元元年と定められ、翌年1月更に即位日を祝日とし、尋(つい)で此の日を紀元節と名付けらる。
〇論功行賞(ろんこうこうしょう)
神武天皇即位の二年 群臣の功を定め賞を行い給う。ミチノオミノミコトは宅地を賜わりて殊に寵せられ、珍彦(ウヅヒコ)を倭國造(やまとのくにのみやつこ)に、劔根(ツルギネ)を葛城國造(かつらぎのくにのみやつこ)に、又 弟猾(オトウカシ)を猛田の縣主(アガタヌシ)に、弟磯城(オトシキ)を磯城の縣主に各任じ給い、又ヤタガラスも嚮導(きょうどう)の功を以て賞せらる。
〇祭政一致
上古に於ける政治は、其の天神地紙(てんじんちぎ)を祭るを以て重なるものとす。故に古来 祭(まつり)と政(まつり)とは一致なりとの称あるなり。
〇中央政府の組織
当時の朝官は世襲にして、中央政府の組織もすこぶる簡易(かんい)なり。即ち天種子命(アメノタネコノミコト)は、天富命(アメノトミノミコト)と共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し、又ミチノオミノミコトは、オオクメノミコトと共に各部下の将士を率いて宮門を護衛し、ウマシマデノミコトは、其の部下の将士を率いて殿内に宿衛せり。
〇天種子命(アメノタネコノミコト)
ミコトは天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫なり。神武天皇の中国平定に仕え、天皇平定の後に鳥見(とりみ)の山中に皇祖天神を祭り給う時にこれを輔け奉り、又アメノトミノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を佐(たす)け奉る。
〇天富命(アメノトミノミコト)
ミコトは太玉命(フトタマノミコト)の孫なり。山材を採りて皇孫の為に宮殿を作り、齋部(いんべ)の諸氏を率いて種々の賽鏡及び木綿・麻等を作らしめ、又アメノタネコノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し奉る。
〇大久米命(オオクメノミコト)
久米氏は其の祖 高皇霊尊(タカムスビノミコト)に出づ。神武天皇御東征の時、オオクメノミコトはミチノオミノミコトと共に軍に従いて功あり。平定の後もミチノオミノミコトと共に各部下と率いて、宮門を警衛し奉る。
〇國造・縣主(クニノミヤツコ・アガタヌシ)
國(国)造・縣(県)主は中央政府の朝官に対し、地方官の名称なり。其の國造の造は御臣の義にして、國造の治むる区域は、略後世の郡に同じ、又縣主の県は、朝廷の御耕田を云い、また田舎をも云う。縣主は其の県(後の郡位のもの)を治むる長官にして、当時は畿内の御耕田を掌(つかさど)るものを云う。要するに國造・縣主は、皆世襲の職にして、其の職掌(しょくしょう)は土地を領して人民を治め、神紙(じんぎ)を奉りて田賊を貢するにあり。


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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! 〜 神武天皇が即位、日本建国の日とされる『紀元節』 9歳 ピアノ弾き語り

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より Α/瞭租傾弔藩採天皇 顕宗 仁賢 両天皇 

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 〜 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆サルが人になったとする進化論と、日本人・陛下がサメの子孫とした日本神話、あなたはどっちを信じますか?

◆昨年の国内旅行から 〜 奈良、京都、宮島、姫路、萩……

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆四国各所でハングルのシールが貼られまくり、それを剥がすよう促した紙が貼られていたということですが

◆日本人なら世界遺産(ユネスコ)よりも国立公園!

◆保守は教育勅語の復権で一致団結を!〜左翼価値観に風穴を開けるべし
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
神代 皇基の遼遠

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(2016.10.15)
妻木さんの『最新 日本歴史解釈』第一章は、イザナギ神とイザナミ神の国産みから、天照大神の御孫 ニニギノミコトの天孫降臨までです。神武天皇による建国がなされる前までの、戦前は“神代”(かみよ・じんだい)と呼ばれていた時期。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

我が国体
上に万世一系の天皇上に万世一系の天皇君臨し給う―下に忠良なる臣民あり― 世界無比の尊き国―建国の基極めて遠し―国運益栄ゆ―外国の侮を受けず。


天照大神(アマテラスオオミカミ)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)―大八島洲国成る― 天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノウノミコト)―天照大神の御徳― 高天原(タカマガハラ)―大神は皇室の御先祖。


素戔嗚尊(スサノオノミコト)
スサノオノミコトは天照大神の御弟―勇敢にして暴行多し―ミコト出雲に逐はる― ミコトの出雲地方の征服―叢雲剣(ムラクモノツルギ)を得て大神に献ず―ミコトの韓土往来(朝鮮半島)。


大国主命(オオクニヌシノミコト)
オオクニヌシノミコトはスサノオノミコトの御子―命少彦名命(スクナコヒナノミコト)と出雲地方の経営―医療のみちを教える―禁厭(マジナい)の法を授く―遠近みなその徳化に服す―大神の御使―經津主(フツヌシ)・武甕槌(タケミカヅチノ)の二神―ミコト国土を上る―ミコト杵築宮(キヅキノミヤ)に退居(出雲大社)。


皇基の遼遠
天照大神の御子 天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)―アマノオシホミミノミコトの御子 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)―大神の詔―三種の神器―皇室の御基定まる― 三種の神器は皇位の御璽(ミシルシ)。


天孫の降臨
天孫ニニギノミコト大神の大詔を奉じ給う―天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・天忍日命(アメノオシヒノミコト)、太玉命(フトタマノミコト)等の供奉―天孫日向国に降臨―笠狭崎(カササノミサキ)―日向の御三世―ニニギノミコトの御孫 鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の御子 五瀬命(イツセノミコト)・磐余彦尊(イワレヒコノミコト)等―イワレヒコノミコトはすなわち神武天皇。


〇大八洲国
古の伝えにイザナギノミコト・イザナミノミコト始めて磤馭慮島(オノコロシマ)すなわち淡路の小島に降りて大八洲 国を成し給うと云う。その大八洲とは淡路・伊予 (二名洲) ・筑紫 (九州) ・壱岐・対馬・隠岐・佐渡・大倭(豊秋津島洲すなわち本州) の八国にして、すなわち我が国を云う。或は云う、大八洲は大弥島(おほやしま)のわけにて、我が国が無数の島々より成れるによると。
〇天照大神の御徳
大神は一に大日孁貴(オホヒルメノムチ)尊と申す。その御徳の高大なることは、あたかも太陽の天に在りて光り輝きの麗しく天地四方を照らし徹すが如くにまします。よりてその御徳の高大なるをただへ奉りて天照大神ともオホヒルメノムチノミコトとも申す。
〇高天原
天祖の治め給いし高天原の所在につきて、或は天上とし、或は常陸とし、或は伊勢とするなど種々の説あれども未だ定まりたる説なし。研究の進むに従いてその所在の明らかなる時代もまたあるべし。
〇スサノオノミコトの暴行
スサノオは進む鳴は男にて、ミコトの御性質は烈しく猛く速きによりてかく申す。さて天照大神の田に稲種をまき給うに当たり、ミコトは之を重ねまきをなし、或は畔を毀ちてその水を涸らし、又大神の新穀を饗し給う祭の場や、神衣を織り給う室をけがし給うなどの暴行あり。大神、大いに之を怒りて石窟(いわや)にかくれ、戸を閉じて出で給わす。群神乃ち相はかりて鏡を賢木(さかき)にかけ玉を飾りて石窟の前に立て、かつ舞や樂を奏しなどして、遂に迎え奉る。かくてミコトはおいやらて給う。
〇スサノオノミコトの韓土往来
初めミコトの生まれ給うや、御父はミコトの性質の荒々しきを以て、海原すなわち韓国を治めしめんとし給いしが、その暴行あるに及びておいやられ給う。ミコト即ち途中出雲に至りて兇徒(ワルモノ)を平らげ、出雲の須賀(スガ大原郡御室山)の地を治め、オオクニヌシノミコトを生み、遂に韓国に往き給う。
〇少彦名命(スクナヒコナノミコト)
命は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の子なり。大国主命が出雲地方を平定するに当たり、少彦名命は海外より至りて大国主命を助け、力を合わせて諸国を経営し、人民の為に病を治むるの術を起こし、又蟲鳥獣などの害をはらいのぞく法を始めしが、後に出雲の熊野の崎(八束郡)より発して常世(トコヨ)の国に渡りぬ。常世国の常世は遠く遼(はるけ)き意にして海外の国を云う。
〇経津主命(フツヌシノミコト)
命はイザナギ・イザナミの二尊より出づ。初めタカミムスビノミコトは皇孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を立てて葦原(あしはら)の中国の主となさんとし給う。よりて天穂日尊(アメノホヒノミコト)や天稚彦(アメノワカヒコ)などを遣わししも皆忠誠ならず。即ち諸神にはかりてフツヌシノミコトと武甕槌命(タケミカヅチノミコト)とを遣わし給う。二神出雲に至り皇孫を降して此の国土に君臨せしめんとの天照大神の御旨を伝える。大国主命、詔をかしこみて命を奉じその経営せし国土を上りぬ。かく偉勲(いくん)ありしかはフツヌシノミコトは香取神として歴代朝廷の崇敬厚く、古来鹿島神社に合祀ありしが、後神宮とし給う。下総香取郡香取町にある官幣大社、是なり。せるを以て、藤原氏は氏神として崇め、鎌倉将軍もまた武神として之を尊信す。
〇武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
ミコトはフツヌシノミコトと其の祖を同じくす。フツヌシノミコトと共に出雲に至りて、天照大神の御旨を大国主命に伝えて、其の国土を天孫に上らしむ。かく偉動ありしかば鹿島神として歴代朝廷の崇敬厚く、アメノコヤネノミコトを合祀せるを以て、藤原氏は氏神として崇め、鎌倉将軍もまた武神として之を尊信す。
〇出雲大社
大社は簸川郡杵築町に在りて、大国主神及びスサオノミコトを合祀す。大国主命が国土を捧げて自ら退居せし杵築宮のあとに祭れるもの即ち是なり。それ大社と云うは、殿閣の営造門廊の構成等すこぶるに壮大なるに起これりと。大社の創建は神代に在りて歴代朝廷の崇敬厚く、現に官幣大社なり。
〇天照大神の詔
日本書記に「葦原千五百秋(あしはらのちいおあき)の瑞穂国(みづほのくに)は、これ吾が子孫の王たるべきの地なり、宜しく爾皇孫(いましすめみま)就いて治めよ、行けよ、寶祚(ほうそ)の隆(さか)えまさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と無窮(きはまりな)かるべし。」 と見え、又アメノオシホミミノミコトに三種の神器の一なる神鏡を授け給うとき 「吾児この寶鏡(かがみ)視ること、当(まさ)に吾を視るがごとく、興(とも)に床を同じくし殿を共し以て寶鏡(いはひのかがみ)と為すべし」と見ゆ、天照大神の詔是なり。
〇三種の神器の由来
八咫鏡(やたのかがみ)・八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)及び草薙劔(くさなぎのつるぎ)、これを三種の神器とす。初め天照大神御弟 スサノオノミコトの暴行を怒りて石窟にかくれ給うや、諸神これを迎え奉らんとし、石凝姥(イシゴリドメ)命に銅にて八咫鏡を作らしめ、玉祖命(タマノオヤノミコト)に八坂瓊勾玉を作らしむ。神鏡・神璽(しんじ)これなり。八咫は古に物を度るに呎と云う名ありしより、鏡の径八寸ある意とも、或は八頭の義にて八稜(八りょう)形なりしとも云う。又八坂瓊勾玉は美玉の数多を長き緒に貫きたるものにて、八坂は尺度の義なり。また草薙劔はスサノオノミコトの出雲にて大蛇を平らげて獲給いしものなり。大蛇の居る所の天上に常に雲気ありしより、初め叢雲(ムラクモ)劔と云いしが、後に草薙劔と改められる。
〇天児屋根命(アメヤコネノミコト)
命は神皇産霊尊命(カミムスビノミコト)の子にして中臣氏・藤原氏等の祖なり。命は天照大神に仕え、大神の石窟に隠れ給いし時、太玉命(フトタマノミコト)と共にその怒を散じ給うことを図り、天孫降臨の際には、天孫に従い奉り、また大神の命にてフトタマノミコトと天孫の為に社殿たぐいを立ててまつり、或は殿内に在りて天孫を護衛し奉れり。孫天種子命は神武天皇に仕え奉る。
〇天忍日命(アメノオシヒノミコト)
命は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の子にして大伴氏の祖なり。天孫降臨の時に久米(クメ)氏の祖なる天津久米命(アマツクメノミコト)と共に弓矢を取りて之に従い、其の前駆(ぜんく)を警護し奉る。曾孫 道臣命(ミチノオミノミコト)は神武天皇に仕え奉る。
〇太玉命(フトタマノミコト)
命はタカミムスビノミコトの子にして斎部(イムベ)氏の祖なり。天照大神の石窟にかくれ給いし時、部下を率いて和幣(御幣)を祀り、アマヤコネノミコトと共に大神の怒をとき奉る。また天孫の為にアマヤコネノミコトと共に殿内に在りて警護し、降臨の時、之に従い奉る。安房神社はフトタマノミコトを祀る。孫 天富命(アメノトミノミコト)は神武天皇に仕え奉る。
〇笠狭崎(かささのさき)
古の伝えに吾田(アダ)の笠狭の御崎と見ゆ。その吾田は今の薩摩をややし、笠狭は同国川邊郡加世田郷の在りし地にして、今の野間岬に当たれるものの如し。
〇日向御三世
天孫ニニギノミコトの日向に降臨し給いてより、御子 彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)、御孫 鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の御三代、此にて天下を治め給いしを以て、之を日向御三世と申す。
〇大嘗会(だいじょうえ)
天皇御即位の典禮(てんれい)を行われし後、始めて新穀を以て天照大神及び天神・地祇を祭り給うを云う。天皇一世一度の新嘗(しんじょう・にいなめ)にして、大新嘗(だいしんじょう)とも践祚大嘗祭(せんそおおにえのまつり)とも称す。上古大嘗を新嘗とも書して之を区別せず、この大嘗祭はその義全く新嘗祭に同じきが故なり。その区別のようやく分かれしは、天武天皇の頃より以後に在り。さてこの祭には、悠紀(ゆき)・主基(すき)の二斎国(ふたいつきのくに)の稲を用いて神饌(しんせん)となす。中世以降両斎国は、毎に近江を以て悠紀とし、丹波・備中を以て主基とす。明治天皇の時は甲斐を悠紀とし、安房を主基とし、今上天皇は愛知県を悠紀地方とし、香川県を以て主基地方と治定せしめ給う。貞観儀式の制にては、受禅の天皇その即位7月以前にあらば、当年大嘗会を行い、8月以降ならば、明年に行うべきことに定めしも、古来変例少なからず。殊に室町幕府の末争乱相つぎ、朝廷の典禮 廃れて、この大典をも旧例の如く行われずして継続せしが、、櫻町天皇の時、復興せられてより、永く不刊の大典となれり。
〇瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
天照大神の御孫にして、神武天皇の御(曾)祖父に当らせ給う。御父はアメノオシホミミノミコトにして御母はカミムスビノミコトの女栲幡千千姫(タグハタチヂヒメ)なり。皇祖カミムスビノミコト特に尊を愛し給う。天照大神御子孫をして中国を治めしめんとし、使を出雲に遣わして大国主命に国土を上らしめ給う。命大神の命を奉じて国土を上るに及びニニギノミコトに勅して(勅語は五頁に見ゆ)中国を治めしめ給い三種の神器を授け給う。これに於て尊は多くの神々を従えて日向国に降臨し給う。是より神武天皇に至るまで三代日向にましまして徳化を布き給う。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 神武天皇

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆日本神話の絵本について 〜 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 〜 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 〜 日本神話を題材に

◆天照大神が女神だからと女系天皇を主張するノーナシ左翼を一網打尽に論破、撃沈さす! 〜 男系継承を堅持したアマテラスとスサノオの子供たち

◆サルが人になったとする進化論と、日本人・陛下がサメの子孫とした日本神話、あなたはどっちを信じますか?

◆「道主貴(みちぬしのむち)」 玄界灘の三女神を祀る宗像大社を訪ねて

◆萌え系 日本神話がひどい件

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆神棚と天照大神について 〜 日本神話 “アマノイワト”伝説の美しい絵本から
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  神代〜古代
はしがき・もくじ

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(2016.10.14)
今の日本で教えられてる歴史はデタラメ。現在、出回ってる歴史関連の本でも、本当に信頼できるものは非常に少ない。戦前のもので何かいいものはないかと探してて見つけたのがこの本です。昔の本は残ってる数自体少なく、とっても希少ですが、古い歴史学習書で入手できるものをいろいろ集めてみて、わかりやすそうだし一番いいなと思ったのがこれです。前にこちらでも神代の年表をアップしてますが、それと同じ妻木忠太さんの『最新 日本歴史解釈』という参考書のもの。もちろん、古代については古事記や日本書紀を元に書かれており、何度も重版されてるし、当時はかなりポピュラーな学習書だったと思われます。今からちょうど百年前に発行された本ですね、何かのめぐり合わせでしょうか。
コチラの『和俗童子訓』(貝原益軒)を元にした武家の子女教育カリキュラムの作成協力いただいた女子学生のミズキさんにも、この戦前の歴史読本の入力ご協力いただきました。 まだ少しですが、その一部が上がっておりますので、これから順次、公開していきますね。今日は目次とはしがきだけですが、仕上がってる部分は続いてアップさせていただきます。失われた歴史教育再興のため、まずはこの目次にある神代から大和朝廷以前の頃までの全13章を、テキストでアップする予定です。尚、この本には挿絵等はありませんので、挿絵等については同じく戦前の他の学習年表等を利用していきます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


はしがき


一 本書は主として師範学校中学校高等女学校等中等程度の各種学校における学生諸子の日本歴史教科の演習復習に便にし、又高等学校陸軍士官学校商業学校等各種専門学校入学志願者の日本歴史科受験の参考用に充てんことを目的として編纂したる所なり。


一 現行の中等程度日本歴史教科書の課題は文部省にて編纂せられたる教授要目に準拠したるもの多し。よりて本書の課題もまた大概文部省公示の教授要目に従いたり。しかしてその課題の下に収録せる教材は、現にも最も広く採用せられたる教科書数種につきて選定し、更にこれを節に分ち、その各節の事項は摘要を記してこれを順序に次列したり。これ摘要を順序に次列せしは予習復習によって一見各節の要項を知り、これに注意せば容易にその事実の全体を記憶し得べからしめんが為して、就中事実の説明の要すべきものには星符を施し各課題の終においてこれが解釈をなしたり。


一 本書は中等程度の各種学校日本歴史科の予習復習に便するとともに、各種専門学校入学志願者の日本歴史科受験準備用に充てんとしたれば、更に最近十一箇年間の各種専門学校日本歴史科試験問題の解釈をなしこれを適当なる各課題の終に収めたり。


一 本書を編纂するに当たりて、国定教科書小学日本歴史及び同教師用教科書にも斟酌し、またもって小学校における歴史科教授の際教師の参考たらんことに意を用いたり。


一 本書に解釈したる事項にその数約1,200に達し、しかもこれが簡明に務めたれば、なお辞典の用をなすことおおかるべく、従いて中等教員受験者の参考たること確かに少なくならざるべきを信ず。


一 本書の終には発音引の索引を附し、主として本書中に解釈を施したる事項を五十音の順序に従いて配列したり。


大正6年3月
編者 識す


目   次

1 神代 皇基の遼遠

2 神武天皇

3 崇神天皇と垂仁天皇

4 日本武尊(やまとたける) 成務天皇

5 朝鮮半島の内府 神功皇后の征伐 文物の伝来

6 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

7 朝鮮半島の変遷 (征韓後の韓土の形勢〜任那 日本府の滅亡)

8 仏教の伝来と蘇我 物部 両氏の争い

9 聖徳太子 支那への使節派遣

10 仏教の興隆 美術工芸の進歩

11 蘇我氏の無道

12 大化の新政

13 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

14 天智天皇 律令の選定

15 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)


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(2017.3.18)
第15章 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)までアップしてます。ここで終えようと思ってたのですが、もうちょっとだけ後にアップしようかとも思ってます。

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  /逝紂々調陲領鳳

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ◆/隻霤傾

◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 〜 日本神話を題材に

◆日本神話が題材のスペクタクル巨編 映画 『 日本誕生 』について

◆日本神話の絵本について 〜 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆未来の歴史教科書より 〜 ルーツを守らない日本人の未来

◆陛下の靖国参拝こそが核心。総理や閣僚の参拝は本質問題ではない

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! А10月17日は神嘗祭 〜 唱歌『神嘗祭』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆仁・義・礼・智・忠・孝……五倫、四徳、五条、四端の心から道を修むる 〜 侍が学んだものを学び、偉大な先人たちと志を一にす

◆日本が好きな親なら子供には教育勅語! 〜 小学生以上なら暗唱できるよう覚えさせてみませんか?
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

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(2017.2.22)  (戻る)
今日は奈良 平城京奠都(てんと)、そして当シリーズの原典である國として初めての史書 古事記、そして日本書紀や風土記の編纂、南九州の服属まで達成され現在の日本列島がほぼ完成する流れになります。この後も蝦夷における反乱に対して坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられての征行などがありますが、その辺りは現代教育でも一応は教えられており、本シリーズにおける取り上げはいったんここまでとします(後にもう少し先までやる可能性ありますが)。これ以降の歴史は現代の歴史教育でも一応合ってるところもあるのですが、今回掲載分の直後、和気清麻呂や菅原道真のエピソード等、現代教育ではほとんど教えられていません。もちろん建武の中興などの正しい歴史についても。そういったものについては後に別途、本書や戦前の国史教科書等を元に取り上げていくつもりです。

現在の歴史教育では、奈良時代ぐらいまでの神代・古代とされる時代の部分は非常に浅くしか教えられていません。しかも皇統否定、朝鮮史観に偏向してますし。ここで掲載の参考書なら、千年以上前のことでも非常にリアル、現代人でもとっても身近に感ぜられたことと思います。今の作る会とかも工作員の巣窟と化してるし、あそこの教科書とかもムチャクチャですよ。ネットだって今や胡散臭くてアッチ臭い歴史サイトばかり氾濫してますが、昔の歴史学習書の掘り起こし、最も大事でとってもシンプルなことなのに今までそれを誰もやっていない。ここではそれをやっていきます。サファイア自らやってますよ。これは偉大な作業だと信じてますし、後にきっと、ここにあることはジワジワ広がっていくでしょう。そういうのさえ知っていれば、商業主義、小銭稼ぎでポコポコと売りに出されてるような歴史関係書なんてほとんど不要なんです。戦前の人々が学んでたものをまずは土台にしておく、それだけで今の教育で育った人々とは全然違った歴史観が持てますし、その上で独自探求を深めていけばいい。それだけのことです。
断絶された歴史を学び、戦前の人々の思いに通じてくださいませ。それでは今後とも、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

奈良奠都
元明天皇(天智天皇の皇女)の御即位―神武天皇以来の歴代遷都―國運の進歩―支那との交通頻繁―壮大の帝都の必要起る―和銅3年 奈良に奠都―結構 唐の制に倣う―條・坊の区画等完備(平城京の称)―建築の壮麗―政治の繁多―都下の人口増加―遷都の事 困難となる―光仁(こうにん)天皇に至る迄 七代70餘年間の帝都―奈良時代の称(奈良朝とも云う)。


和同開珎の鋳造
元明天皇の朝 武蔵より和銅を献ず―和銅と改元―和同開珎の貨幣鋳造―物々交換の代りに貨幣の適用―商業の進歩を促がす。


國史 地誌の撰修
稗田阿礼(ヒエダノアレ)古伝を暗記す―太安万侶(オホノヤスマロ)古事記を上る(和銅5年 歴史の始)元正(ゲンショウ)天皇(天武天皇孫女)元明(ゲンメイ)天皇に次いで御即位―舎人親王(トネリシンノウ) 日本書紀を上る(養老4年に成る漢文の國史)―六國史 成る―元明天皇の時 諸國より地誌を上る(地誌の始)―風土記。


隼人の服属
九州南部の隼人―其の一部の反乱―元正天皇の時また騒擾(そうじょう)す―大伴旅人(オホトモノタビト)の隼人平定―隼人の服従。


西南諸島の服属
掖久(やく・屋久島)・多褹(たね・種子島)・奄美(推古天皇の朝より)人の来朝―文武天皇の時に度感(吐噶喇・トカラ)内附す―元明天皇の時に信覺(信覚・しがき・石垣島)・求美(くみ・久米島)の諸島 服属す―西南邊陲(へんすい・くにざかい)の地 皇化に服す。


支那との交通
支那との國交回復―文武天皇の時 粟田眞人(アワダノマヒト)以下 遣唐使を命ぜらる―使節の往来 頻繁―留学生・留学僧の入唐―当時 使船の航路。


〇神武天皇以来 歴代遷都
上古の世は諸事なほ冠位にして質樸なるが上に、建築の衛も甚だしく進歩せざりき。されば宏大なる都城を経営するの必要なきのみならず、遷都のこともまた頗(すこぶ)る容易なりしかば、神武天皇 橿原(かしわら)の地に宮殿を営み給いしより、歴代大抵都を改められ、殆ど之が慣例(なれ)の如くなりしなり。
〇奈良京の條・坊
奈良の都は元明天皇 和銅3年の遷都にして、之を平城京と云う。今の奈良市の西に在りしなり、此の都域は規模 頗る宏大にして、東西約四十町南北四十五町に及び、羅城(らじょう)を周囲にめぐらし、南面に羅城門を設く。大内裏は北部に在りて、其の大内裏より南面 羅城門に至れる中央に大道あり、之を朱雀大路(すざくおほぢ)と云う。此の朱雀大路を以て、東西両京に分つ。其の東を左京と云い、其の西を右京と云う。條・坊の区画は後の平安京が、八戸を行とし、四行を街(または町)とし、四街(または四町)を保とし、四保を坊とし、四坊を條とし、條を九條になせるに、ほぼ同じとす。
〇七代七十餘年
古来 奈良の朝を七代七十餘年と称す。その七代は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の御七代を云い、七十餘年は和銅3年より桓武天皇の延暦3年 山城の長岡(乙訓部向日町)に遷都ありし迄、七十五年に渉(わた)れる間を概称せるものなり。此の時代を世に奈良の朝とも、奈良時代とも云う。(尤も以上の御七代中 聖武天皇は恭仁宮・難波宮に居給い、淳仁天皇は保良宮(ほらのみや)に居給いしことあるも皆 一時のことなりしなり。)
〇和同開珎
此の銭貨は和同年間に鋳造せしを以て此の名あり。銀と銅との二種ありて、銀銭は径八分重二匁一分強、銅銭は径八分重一匁、銀銭一文は銅銭四文に当る(匁・もんめは尺貫法による重さの単位。一匁は一貫の千分の一。三・七五グラム)。和銅元年5月、始めて銀銭を行い、同年8月 銅銭を行う。此の開珎の珎の字を珍とせる説あれども、寶(宝)となすをよろしと信ず。
〇物々交換
上古は諸事簡易にして、すべて交易には互に物品を以てして、貨幣の媒介によるの必要起こらず、従いて未だ鋳銭(じゅせん)の事あらざりき。されど早くより、支那・朝鮮の銭の我に伝われるありて銭のこと古書に見えたり。其の後、世事 漸(ようや)く複雑に向うに及びて、貨幣の便あること知られ、持統・文武両天皇の御代に、鋳銭司(じゅせんし)を置かれし事ありしも、なほ普(あまね)くは行われざりき。元明天皇の御代に、和同開珎の鋳造せられ、奈良朝の頃より、銭貨の使用を奨励せられなどして、次第に之を用うるに及び、物々交換の不便を減じて、商業などの進歩を促がすに至れり。
〇稗田安禮(阿礼・ヒエダノアレ)
天武天皇の御代の人なり。人となり聡明にして、目にわたれば口によみ、耳にふるれば心に勤(しる)すと云う。天皇 諸家に伝えたる帝紀など既に正實(実)にたがい、虚偽を加うること多く、其の失を改めざれば、久しからずして其の旨の亡びんことを憂い給い、安禮に勅して帝皇の日継(皇位を継承すること)及び先代の旧辞(古事記や日本書紀以前の歴史書)を謡習せしめ給う。安禮 時に年28、和銅4年に至り、元明天皇 太安麿(オホノヤスマロ)に詔して安禮がよむ所の勅語の旧辞を撰録して上らしめ給う。之を古事記と云う。
〇太安麿(太安万侶・オホノヤスマロ)
神武天皇の皇子 神八井耳命(カンヤイミミノミコト)の後なり。文武・元明・元正の三天皇に仕え、累進して従四位下に叙せられ、氏の長者となりて後 民部卿に拜(拝)す。元明天皇の和銅4年9月、古事記修撰の詔をうけ、翌年正月成りて献上す。養老4年5月、舎人親王等と勅を奉じて日本書紀を修む、成りて之を上る。養老七年七月卒(しゅっ)す。
〇古事記
上中下三巻より成りて書体は漢字の音訓を並び用い、専ら古伝旧聞を其の儘(まま)に録せんことを勉む。我が國 開闢(かいびゃく)より推古天皇に至る迄の事を記せる歴史にして、我が国に現存せる史籍の最も古きものなり。上巻は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)より彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)以前、中巻は神武天皇より応神天皇以前、下巻は仁徳天皇より推古天皇までの各の事蹟を記せり。元明天皇 和銅5年正月28日、太安麿が稗田安禮より聞き取りたるものを修めて上りしものなり。此の古事記に本居宣長が注釈詳解をなしたる四十八巻を古事記伝という。
〇舎人親王
天武天皇の第三皇子(或は六皇子とし或は五皇子とす)なり。文武天皇の御代に親王となりて二品に叙し、元正天皇の養老2年一品に進む。翌3月 優詔ありて封八百戸を加え前と通じて二千戸(一品は八百戸を定とす)を賜わる。さきに勅を奉じて修むる所の日本書紀、養老4年に至りて之を上る。此の年8月知太政官事(ちだいじょうかんじ)となり、聖武天皇即位に及び封五百戸を増し、天平七年に薨す。年60。詔して太政大臣を贈り給いしが、御子 淳仁天皇即位に及び、天平宝字3年 崇道尽敬(スドウジンキョウ)皇帝の號(号)を上り給えり。
〇日本書紀と六國史
日本書紀は三十巻より成り、神代より持統天皇に至る迄の事実を漢文にて編年体に記せる正史なり。神武天皇以下歴代の記述は、古事記より詳なれども、支那の史記・漢書等に則りて彼の人にも見すべきように漢文を用いたれば、文飾に流るゝの欠点あり。一品 舎人親王 勅を奉じて太安麿等と之を撰修し、養老4年5月に至りて此の三十巻と系図一巻とになし、之を献上せしなり。此の書は菅野真道(スガノノマミチ)等の撰なる続日本紀(文武天皇元年より桓武天皇 延暦10年に至る)藤原緒嗣(オツグ)の撰なる日本後紀(桓武天皇 延暦11年より淳和(ジュンナ)天皇 天長10年に至る)藤原良房の撰なる続日本後紀(天長10年より嘉祥3年に至る)藤原基経等の撰なる文徳貫録(嘉祥3年より天安2年に至る)藤原時平等の撰なる三代実録(天安2年より仁和3年に至り)と共に本朝の六國史と云う。
〇風土記
諸国の土地の肥塉(ひしゃく・塉は痩せ地の意)及び山川原野名號の源由、また古老相伝の旧聞異事、竝(並)に各地より出づる産物等を漢文にて記したる我が國 最古の地誌なり。元明天皇 和銅6年5月、始めて諸国に令して此の風土記を上らしめ給いしより、諸国 漸次に之を上りしなり。今に伝われるは、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の五風土記のみにして、他は散佚(逸)して存せず。
〇隼人
上代に九州の南部 大隅・薩摩地方に住みし人種なり。其の性質 頗る勇猛にして敏捷(びんしょう)なりしより之を隼人(はやと)と名づく。日本書紀に、隼人は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦のことである)の御兄 火闌降命(ホノスソリノミコト・つまり海幸彦)の裔と見えたるより之を大和民族となし、また熊襲と同地方に住み而も正史に熊襲を記せざるに及びて隼人のことを記せるを以て之を同種族となし、また熊襲・隼人 同種族の証なきを以て、大和民族にも熊襲・隼人 両種族にもあらざる種族となせるあり。
〇大伴旅人
大納言 安麿の長子なり。元明天皇の御代に正五位上に叙せられ、累進して元正天皇 霊亀(れいき)元年従四位上 中務卿となり、養老2年中納言に拝し正四位下 山背(山城国)攝官となる。時に大宰府の隼人反して大隅の國守を殺す、旅人 征隼人持節大将軍となりて之を平ぐ。同五年 功を以て従三位に叙せらる。此の年 元明天皇崩じ給い、旅人 山陵の事を監す。聖武天皇の神亀(じんき)の初年、正三位に叙せられて山城の國事を兼知せしが、出でて大宰師となる。天平二年、召し還されて大納言となり、翌年 従二位に叙せられ尋(つい)で薨ず。年67。旅人文才あり、また和歌をよくす。
〇奈良時代の歴史・地誌の撰修
太安麿の著なる古事記、舎人親王・太安麿の著なる日本書紀、諸国より上らしめられたる風土記 是なり。
〇奈良朝の重要著作
古事記・日本書紀・風土記の外、萬葉集 懐風藻(かいふうそう・現存する最古の日本漢詩集) 等なり。

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
天智天皇 律令の選定

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(2017.2.20)  (戻る)
宮内省の名はこの頃に生まれました。明治政府のような近代的な省庁・組織体制というのは、現代では西洋に倣って作られたように教えられていますが、今日の内容でおわかりのように、日本においては大化の新政 天智天皇の時代に既に完成していたのですよ。しかも学制まで整えられていた。なんだか今の日本史教育では、この頃の政治機構が古臭くて原始的、すごく遠いものであるかのよう感じさせる古代貶め偏向教育がなされてるわけですが、こうやって見れば、ものすごく身近で完全に現代に通じるものであったことが明快に伺い知れます。今回は驚きの内容ですからね ^▽^) すごいリアルだし、古代の人々って、現代人とそんなに変わらないんじゃないかって、きっと感ぜられることでしょう。それさえ気づけば千年前の人とだって二千年前の人とだって、その思いを一にして通じることが出来るわけです。
百年前の教科書や歴史学習教材と今の教材、ここまで読んできたら、今の教材はまるで話にならないこと、おわかりでしょう。昔の教材さえあれば、もう何もいらないのです。今の上っ面評論、俗物的な歴史書では、偉大な先人たちと心を通わせることが出来ません。
今後の歴史学習で聖徳太子がいなかったとされてしまうコチラで触れたのと同じような事例について、ゲーテ(1749-1832)は前にも紹介した『ゲーテとの対話』(エッカーマン 著・詳しくは右画像クリック)で次のように評してます、
「これまで世間では、たとえばルクレティアとかムキウス・スカエヴォラとかいった英雄精神が信じられてきた。それによって、心を暖められ鼓舞されてきたのだ。ところが今や歴史批評などというものがあらわれて、そういう人物は存在しなかったのであり、単にローマ人の偉大な精神がつくりあげたフィクションか寓話と見なすべきだ、というのだね。しかし、そんなみすぼらしい真実を聴いたところで、しょうがないよ! ローマ人が、そういうものを創作するほどに偉大であったのなら、われわれにだって、せめてそれを信ずるだけの偉大さがあってしかるべきだろうに。」

この通りゲーテの時代から先人の偉業をないがしろにする歴史改変は目立っており、そのような風潮をゲーテは嘆き、古代であれいつであれ、実在の先人が記した記録を後世で作り話だの寓話だのと見下す人々を信用せず、古代人、先人の偉大さ、その真実に気づいていました。
ハッキリ明言しておきますが、ローマ帝国や唐の國、そしてこの頃の大和朝廷の方が国家統治の完成度は現代の国家より高かったのですよ。現代国家の方がボロボロなのです。これほど優れた近代国家を打ち建てたのが、天智や文武の先帝だったのです。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

天智天皇の御治蹟
近江の大津に奠都(てんと)―政治に勵(はげ)み給う―戸籍の修正(戸籍を造り 盗賊 浮浪を糺(ただ)す。庚午年籍(こうごねんじゃく)―学校の興起―後世 中興の英主と称し奉る(近江朝廷の政)。


天智天皇と藤原鎌足
中臣鎌足 天智天皇 中興の業を輔(たす)け奉る―律令の選定に著手―天皇即位の翌年 鎌足病む―天皇の御親臨―皇太弟を遣わし大織冠の位を授け藤原朝臣の姓を賜う(藤原氏の始)―其の子孫 漸く顕(あら)われ一門 大に栄ゆ―多武峯(とうのみね)談山(たんざん)神社。


律令の撰定
天智天皇の時の律令先帝(近江令)―天武天皇 文武の政を励み給う―律令の續修(続修)―文武天皇の時の律令改修―忍壁(オサカベ)親王・藤原不比等(フヒト)改修の命を奉ず―大宝元年に完成(大宝律令)―令は管制・田制・兵制・学制・税制等 今の民法に關(かん)する制度規則を定むー律は今の刑法に当りて決罪の標準を示す―主に唐の制度に倣い我が國 古来の風俗習慣を参酌(さんしゃく)して規定す―元正(ゲンショウ)天皇の時 不比等に修刪(しゅうさん)の命を奉ず―養老2年に完成(養老律令)―我が國 法制の根本。


大寶(宝)律令の大要
(イ)官制
中央政府に神祇(じんぎ)・太政(だじょう)の二官と中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(ぢぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おほくら)・宮内(くない)の8省―省の下に職・寮・司―神祇官の長を伯とし祭祀を掌(つかさど)る―太政官に太政大臣・左右大臣・大納言等ありて諸政を統べ8省を官す―各省の長を卿とし政務を分掌す―此の外 弾正臺(だんじょうだい)ありて違法の者を罪す。
地方の重要地に特別制を布く―京都に左右京職(しき)―摂津に摂津職―西海道に大宰府―諸國に國司 各郡に郡司―各地方の政務を掌る―すべて各官衛に四部官(しぶかん)
(ロ)兵制
徴兵法―京都に五衛府(ごえぶ)―諸国に軍團(団・ぐんだん)―邊(辺)要地に防人(さきもり)―軍団は毎國 正丁三分一を兵に採用―其の一部 交代 上京して衛府に入る―また出でて防人となる。
(ハ)學制(学制)
京都に大学―諸國に國學―共に地位ある人の子弟を教育す―成業後に考試(こうし)して官吏に登用す。
(ニ)田制
6年毎に班田収授―男子6才にして口分田二段―女子は男子の三分の二の口分田―死後 口分田を公収す。
(ホ)税制
租・庸・調の三種―租は田より納むる稲―庸は一定の労役に服せざる者より納むる布―調は絁(あしきぬ)・絹・布等―租は主に國郡の費用に充つ―庸・調は京都の用度とす。
(ヘ)刑制
笞(ち)・杖(じょう)・徒(づ)・流(る)・死の五刑―皇親また高位・大才・大功の者は殊に寛典(かんてん・情けある取り扱い)に浴す―君 父に関する罪 最も重し―大虐の犯罪者には大赦(たいしゃ)の外 赦免なし。
(ト)位階
親王の位は一品(いっぽん)より四品(しほん)に至る四階―諸王の位は正一位より従五位下に至る十四階―諸臣の位は正一位より少 初位下に至る三十階。


〇大津宮遷都
旧帝都は、今の近江滋賀郡滋賀村にして、天智天皇6年3月 此に遷都し給う。当時、人民 遷都を好まずして、之を諷諫(ふうかん)し奉るものありしが、十年 天皇 此に崩じ給いて、天武天皇の即位に及び、大和の飛鳥 浄見原(きよみがはら)宮(高市郡飛鳥村)に遷都し給えり。
〇庚午年籍
天智天皇の9年2月、新に戸籍を造りて盗賊 浮浪のものを糺斷(ただす)せしめ給う。此の年 庚午の年に当れるを以て、庚午年籍(こうごねんじゃく)と云い、後来 戸籍の原簿として永く除かず、之によりて氏姓の紛乱を正せり。
〇中臣鎌足と多武峯談山神社
中臣氏は天児屋根命(アメノコヤネノミコト・コチラ参照)に出づ。鎌足は御食子(ミケコ)の子にして夙(つと・早くから)に大志あり。皇極(コウギョク)天皇の3年、神祇伯に拝せられしがつかず、此の時に当り、蘇我入鹿父子 無道にして不臣の心を挟む。鎌足 憤然として匡済(きょうさい・悪を正し乱れをすくうこと)の志あり。賢明なる中大兄皇子に親近し奉りて志を語り、共に皇室を輔翼(ほよく)し奉らんとす。されど人の嫌疑を恐れ、共に南淵請安(コチラ参照)に学ぶに托し、往来に事を図る。鎌足 皇子に勸(すす)め奉り、蘇我倉山田石川麿(ソガノクラヤマダノイシカワマロ)と婚を結ばしめて皇子の輔佐とし、また佐伯子麿(サエキノコマロ)等を與黨(よとう・くみする仲間)とす。翌4年6月、三韓進調の日を以て事を挙げ、皇子と共に入鹿を誅す。入鹿の父 蝦夷また自殺して蘇我氏の本宗 此に滅亡す。孝徳天皇 即位に及び、内大臣となりて大織冠を授かる。而して大化改新は、皆 鎌足が中大兄皇子と図りて画策せる所なり。尋(つい)で中大兄皇子(天智天皇)未だ即位し給わるざるに当り、鎌足に命じて律令撰定に着手せしめ給う。天智天皇の2年10月、鎌足 疾あるに及び、天皇 親臨して其の病を訪ひ給い、更に皇大弟 大海人皇子(オホアマノミコ)を遣わして大織冠を授け、且つ内大臣として左右大臣の上位に在らしめ、また藤原朝臣の姓を賜う。此月年56を以て薨ず。其の薨ずるや、摂津三島郡阿威(アヰ)山に葬りしが後、大和磯城郡多武峯に改葬し、廟塔を建てて木造を安置す。後の談山神社 是なり。藤原氏の盛時には、朝野の尊崇(そんすう)甚だ厚く、明治7年朝廷 鎌足の功を追賞して、談山神社を別格 官幣社に列し給えり。
〇近江令
天智天皇は律令の必要を思し召し給い、未だ即位し給わざるに当り、始めて中臣鎌足に命じて之が編纂に着手せしめ給う。かくて天皇即位の年に至りて全22巻成る。之を世に近江朝廷の令と云う。後に天武天皇の修正をへて、持統天皇の3年に全一部22巻の発表せられしもの即ち是なり。
天武天皇の御事蹟
天皇 即位し給いてより、精勵(せいれい・つとめはげむ)治(よい政治が行われること)を図りて朝制・法令等ますます改進し給い、朝儀・官制・兵制・刑罰・風習など大に整理し給えり。即ち親王以下 人民に至るまで服用の差別を定め、跪禮(きれい・地べたにひざまずいて礼をすること)葡匐(ほふく・腹ばいになって手と足ではうこと)の禮(礼)をやめて立禮にふくし、爵位を改めて朝服の色を定め、諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、任官陞(昇)進の法・社寺土地の制を定め、民業を奨めて浮浪の徒を戒め、兵の上を定め、また各戸に兵馬を貯えしめ、軍器を軍役所に収めしめて兵制を改め、其の他 刑罰を整え学術技芸をすすめ給えり。
〇忍壁親王
忍壁を一に刑部(ぎょうぶ)に作る。親王は天智天皇の皇子なり。天武天皇の9年 詔を奉じて帝紀及び上古の事を撰し、朱鳥(しゅちょう)元年 封百戸を加えらる。文武天皇の4年、勅を以て藤原不比等と律令を撰す。後 親王となりて三品に敍(じょ・位を授かる)し、大宝元年 知太政官事(ちだじょうかんじ・太政大臣の職を知る官)となり、慶雲元年 封二百戸を瓩掘⇒眷 越前の地 百町を賜わり五月 薨す。
〇藤原不比等
内大臣 鎌足の二子なり。持統・文武・元明・元正の四天皇に仕え、累進して和銅元年 正二位右大臣となり、養老2年 太政大臣に任ぜられしも辞して受けず。文武天皇の4年、勅を奉じて律令を撰し、慶雲元年 封八千戸を瓩掘同4年 天皇其の勤労を嘉(か)みし封五千戸を賜いて子孫に伝えしめ給う。不比等 其の二千戸を受け一千戸を以て子孫に伝う。養老4年 疾を以て薨ずるや元正天皇 深く悼惜し給い、為に朝を廃し、詔して太政大臣正一位を贈り文忠と諡(し・おくりな)らせ給う。時年62。其の四子 武智麻呂・房前・宇合・麻呂 皆あらわれ一女の宮子媛は文武夫人となり、光明子は聖武皇后となる。
〇大宝律令の説明と我史上重要の所以
大宝律令は主として唐の制度にならい、我が國 古来の習慣を斟酌(しんしゃく)して定めたるものなり。されば大禮に於て朝廷の政治の基本となりて永く用ゐられ、武家政治の起るに及び、其の費用少なくなりしも、管制の如きは名義を存して明治維新に至り、王政復古の管制 之によること多く、明治18年の管制改革にまで及べり。
〇弾正臺(だんじょうだい)
今の警視廳(庁)の如く、風俗を粛清し内外の非違を糾正する役所にして、長官を尹(いん)と云い、其の下に弼(ひつ)・大少忠・大少疏(そ)あり。
〇左右京職と摂津職
左右京職は、京都 左右雨京の民政を掌(つかさど)り、兵士を簡(えら)び、租税を収め、訴訟を聴き武器を修むるなど諸般の事を行う。また摂津職は、職掌 概ね左右京職に同じく、船舶の停る津港地に在るを以て、特に此の職を置かれたれば、郵驛・伝馬を備え、舟具を検する等の事をも掌る。
〇大宰府
府址は今の筑前筑紫郡水城村に在り。此の府は四邊の要鎭にして、西海道九國三島を官し、兼ねて外寇に備え外交の事を掌る。長官を師と云い、其の下に大少貳(弐)・大少監・ 大少典等あり、大宝元年設置の後、天平14年 之を廃し、同17年 之を復せしが、後 次第に衰え、源頼朝 鎭西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置きてより有名無実となれり。
〇律令と格式
大宝律令の制定せられてより、此の律令は著しき修正なし。而して律は今の刑法に等しく、令は政治上必要なる種々の規則を網羅せるものなり。若し之が修正増補の必要起る時は、別に詔勅または太政官符等にて之をなす、之を格と云う。また律令を施行するに当りて、必要なる細則は別に之を定む。之を弐と云う。
〇四部官
大宝令にて制定の諸官衛には、概ね長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)主典(さくわん)の四等の官吏あり。之を四部官と云う。長官は各官衛の長にして其の政務をすべ、次官は長官を助け、判官は官衛の取締をなし、主典は書記をつとむ。例えば八省にて長官を卿とし、次官は大少輔とし、判官を大小丞とし、主典を大少錄とし、また弾正臺にて長官を尹とし、次官を弼とし、判官を大少忠とし、主典を大少疏とし、國にて長官を守とし、次官を介とし、判官を大少掾とし、主典を大少目とし、郡にて長官を大領とし、次官を少領とし、判官を主政とし、主典を主帳とするが如し。
〇五衛府
禁衛を掌れる官府を五衛府と云う。五衛府とは衛門府・左右衛士府・左右兵衛府を云う。
〇軍團(団)
非常に備うるため諸國に配置したる軍營(営)にして、今の師団の少なる如きものなり。其の兵士は管内の男子二十歳以上六十歳以下の正丁中、其の三分の一を徴発して一軍団を組織す。概ね四郡に一軍団を置き、各軍団の兵員同一ならず、千人以上を大軍団とし、六百人以上を中軍団とし、五百人以下を小軍団とす。各団兵士を検し武器を具え弓馬を調へ陣列を閲(えつ・見て確かめる)す。而して軍団中より上京して禁中に宿衛するものを衛士と云い、邊防に出づるものを防人(コチラ参照)と云う。
〇口分田
天下一般に各人に等しく給与せる田地を云う。人生れて六歳に至れば一人毎に二段を給し、女には其の三分の二を与え、各力作して租を上に納め、其の餘(余)を己が食料とし、身死すれば公に還へす。故に政府は、六年毎に人民の生死を調査して其の収授を行う。之を班田収授の法(コチラ参照)と云う。此の方法は大宝令の時 制定せられしが、後 暫く実行せられず、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(皇紀1595―1601・平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称)後に至りて、廃絶するに至る。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  大化の新政

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より Α/瞭租傾弔藩採天皇 顕宗 仁賢 両天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ァ…鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

◆大東亜戦争(太平洋戦争)の起こったわけ (完答)

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 〜 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆親次第で自虐史観なんてどうにでもなる 〜 日本のおかげでアジア諸国の独立が早まった・・・そんなことで喜んでるのも自虐史観の亜種にすぎない
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

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(2017.2.17)  (戻る)
これまで大化の改新や朝鮮半島をめぐる情勢など、ことこまかに記してましたが、ついに朝鮮半島における倭国の足掛かりとなってた百済も任那に続いて滅亡します。そして日本は国内の整備に向かい、北へ南へと皇威を拡張し、現在の日本列島の領土が形成されていきます。白村江の戦いで敗北を屈した日本は、唐・新羅の本土侵攻に備え、西国(九州)における防備を万全にすべく、強化していきました。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

斎明天皇の御即位
孝徳天皇の崩御―皇太子 中大兄皇子 尚 即位を辞し給う―皇極天皇 再び御即位(即ち斉明天皇)―重祚(ちょうそ・一度位を退いた天子が再び位につくこと)の始―皇太子 中大兄皇子の朝政補佐。


北邊(辺)の征服
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の征伐後 東方蝦夷の服従―後 漸く其の勢を復してまた叛す―上毛野田道(カミツケヌノタミチ)の敗死―上毛野形名(カミツケヌノカタナ)の苦戦―越(コシ)の蝦夷 騒ぐ―渟足(ぬたり)・磐船(いわふね)の二柵を設く―越 及び信濃の民を柵戸とす―越國守 安倍比羅夫(アベノヒラフ)の征伐―渟代(ぬしろ)・津軽二郡を置く―渡島の蝦夷を服す―進んで粛慎(みしはせ)を伐つ―蝦夷地方(今の北海道の中部)皇威に服す―蝦夷 平定後の粛慎 再征。


韓土の形勢
歴代任那の回復に尽力―大化新政の頃は唐朝の初期―唐の勢 日に隆盛に赴く―新羅 任那を併せし後 國力 大に張る―高麗(高句麗のこと) 隋軍を邀(むか)え撃つ―高麗の勢 新羅と伯仲す―高麗・新羅 互に隙を生ず―高麗 百済に結びて新羅を攻む―新羅に武烈・文武の二王 出づ―新羅 唐に通じて援を乞う―唐主 高麗を討つ―唐軍 高麗に克つ能わず―百済の国政 大に紊(みだ)る―新羅 唐兵と共に百済を降す―百済の遺臣 鬼室福信(キシツフクシン) 援を我に求む。


百済 高麗の滅亡
斉明天皇 皇太子と共に新羅 御親征―天皇 筑紫に御進発―朝倉宮に崩御―皇太子 中大兄皇子 天皇の御志を継ぎて軍を統べ給う―阿曇比羅夫(アヅミノヒラフ)等の差遣―我に質たりし百済王子 豊璋(ホウショウ)を送る―百済國の再興―百済 鬼室福信を疑いて之を殺す―皇軍 百済を救いて唐兵と戦う―皇軍 利あらず(白村口の戦)―百済 内乱起る―百済王 高麗に走る―百済の滅亡―後5年 高麗の滅亡。


新羅の一統
唐 安東都護府(アントウトゴフ)を平壤に置く―新羅の文武王 唐兵と争う―新羅 平壤以南の地を略取す―唐 安東都護府を遼東に移す―新羅 朝鮮半島の一統。


朝鮮半島の離畔(離反)
中大兄皇子の御即位(天智天皇)―天皇 内外の形勢に考え既往の実績に徴し給う―朝鮮半島に関係の不利―百済の滅亡と共に朝鮮半島より我が軍を収む―大に内政につとめますます國防を厳にす―朝鮮半島の離反(神功皇后以来 茲(ここ)に四百数十年)。


新羅の待遇
新羅は朝鮮半島一統後も来朝す―我は対等以下を以てこれを礼遇す。


唐との修好
百済の滅亡後 唐使 来りて好(よしみ)を求む―我また使を送りて之に答う―彼 我の國交 舊(旧)に復す―唐の文物制度の輸入。


〇越の蝦夷征伐と安倍比羅夫
蝦夷は景行天皇の御代、日本武尊の征伐後 一且(いったん)平定せしが、年を経るに従いて、漸く其の勢を恢復(回復)せり。仁徳天皇の55年、上毛野田道(カミツケヌノタミチ)其の叛を征して敗死し、舒明(ジョメイ)天皇の9年、上毛野形名(カミツケヌノカタナ)将となりて之を討ちしが勝つを能わざりき。孝徳天皇は、大化3年 渟足(ぬたり・越後の沼垂町辺)に柵を造り、翌年また磐舟(越後の岩船町)に柵を造り越(越後越中越前地方)と信濃との民をうつして之を戍(まも)らしめ給う。尋(つい)で斉明天皇の御代に至り、安倍比羅夫 舟師百八十艘(そう)を率ゐ、日本海方面より蝦夷を伐ちて秋田・能代の蝦夷を降し、遠く渡島(北海道)の蝦夷をも招く、翌5年 比羅夫 再び舟師を率ゐ、津軽(陸奥 青森辺)地方を定めて北海道地方にまで及べり。比羅夫の始めて蝦夷を伐つに当り、進んで粛慎(アムル下流の沿岸に住せし種族)を討ちしが、6年 之を再征するに及び、陸奥・北海道の蝦夷 人を使役し、進んで樺太地方にて大に粛慎兵と戦いたり。
〇上毛野田道と上毛野形名
上毛野氏は、崇神(スジン)天皇の皇子 豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の後なり。田道は仁徳天皇の53年、新羅を伐ちて大に之を破り、其の四邑(ゆう)の民を虜にして還る。越えて55年 蝦夷の叛を伐ち遂に伊寺水門(いじみのみなと 陸奥 石巻辺か)に戦死す。又 形名は舒明天皇の9年、将軍となりて、蝦夷を討す。然るに形名 却って蝦夷に破られて、走りて壘(とりで)に入る。賊 之を圍(囲)み、形名 夜に乗じて逃走せんとす。形名の妻 之を漑(まか)きて曰く、難に臨みて逃るるは唯に恥を取るのみならず、祖先の功名をも廃するに至ると。即ち形名の酔いて寝ぬるを伺い、自ら其の劔(剣)を帯びて婢女等数人に弓弦(ゆみづる)を鳴らさしむ。形名 醒(さ)めて起ち、武器を取りて進む。賊 其の兵の多きを思い、囲を解きて去る。形名 遂に之を撃ちて破ることを得たり。
〇柵戸
柵は古に城と共にキと云うより、柵戸をキノヘとよぶ。後には土を築きて構えたるを城とし、木を建て貫を通じて構えたるを柵(さく)とす。柵戸は此の柵に在りて防御の任にあたれる戸を云い、大化3年之を置きしを始とす。
〇高麗 隋軍と戦う
隋の文帝(皇紀1258年)の時、高麗の嬰陽王(エイヨウオウ)遼西(盛京省西境)を侵せしかば、文帝 之を伐たしむ。されど糧食つがずして隋軍退き、高麗また之と和す。文帝の子 煬帝(皇紀1272年)また大兵を発して高麗を伐ちしが、隋軍 潰走(かいそう・戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること)して軍資器械 皆失う。煬帝 大に怒り、翌年再び兵を挙げて侵入せしが、遂に勝つ能わずして軍をかえせり。
〇武烈・文武の二王
武烈王(皇紀1314-1320)は新羅29代の王にして、其の子 文武王(皇紀1321-1340)と共に英明なりき。此の二王の時、唐と同盟して百済・高麗を滅ぼししが、間もなく文武王は百済の旧地を併せんとし、唐の勢力を朝鮮半島より除かんことに努めたり。唐 高宗(皇紀1320年)之を詰問せしも、文武王 之に応ぜずして遂に唐兵と戦い、半島の大部分を占領したり。
〇鬼室福信
新羅の唐兵を誘いて百済を攻むるに当り、鬼室福信(キシツフクシン)は國人を集めて王城を守り、斉明天皇の6年、使を我に遣わして救を請い、且つ曩(さき)に遣わせし王子 豊璋(ホウショウ)を迎えむことを乞う。かくて豊璋の國に還るや、福信 之を迎えて専ら國政に参与す。然るに豊璋 福信を疑い、天智天皇の2年、遂に之を殺しぬ。かく福信は百済末路の良将にして、常に回復に苦心せしが、王 之を殺して其の滅亡を速ならしめたり。
〇朝倉宮
宮址は、筑前朝倉軍宮野村大字須川なりと云う。斉明天皇 百済の請を許し、新羅を撃ちて百済を救わんとし給い、其の7年、親(みずか)ら筑紫に幸して此に行宮を立てさせ給う。当時 其の宮殿の材 削らざるを以て木丸殿と云う。
〇白村口(江)の戦い
白村江は、今の朝鮮 忠清南道の錦江なり。初め百済王 豊璋の鬼室福信を殺すや、新羅 之を知り、直に其の王城をつかんとす、偶(たまたま)日本軍の至るを聞き、其の兵士を白村江に屯せしむ。唐将 劉仁願等の率いたる戦船170艘も、また白村江に陣を列す、かくて我が兵 唐軍と大に此に戦いしが利ならずして退き、豊璋 遂に船に乗じて高麗に走り、百済 遂に滅亡せり。
〇安東都護府
唐は其の征服せる土地を守護する為に、四辺に都護府を設く。而して高麗 百済を滅すに及び、其の故地を管する為に平壌(平安南道)に安東都護府を設く。されど新羅 文武王の時、之を今の奉天府遼陽州の北に在りし遼東城に移したり。
〇唐との修好
天智天皇 百済を救わんが為に唐兵と干戈(かんか)を交え給いしが、其の3年 唐将 劉仁願(リュウジンガン)の郭務悰(カクムソウ)をして表を上り物を献ぜしむるや、之に饗賜(きょうし)し給い、翌年 唐 更に劉徳高(リュウトクコウ)を遣わし、其の帰るに及び使を派して之を送らしめ給う。尋で6年 劉仁願、また司馬法聰(シバホウソウ)をして、我が境部石積(サカイベノイワツミ)等を大宰府に送らしめ、8年 天皇 河内鯨(カワチノクジラ)等を使者として唐に派し給い、唐また郭務悰等二千餘人を我に遣わせり。かくして唐との修好成り、やがて遣唐使留学生・留学僧 相ついで彼地に赴き、唐の文物制度を輸入するに至れり。
〇三韓放棄の主因
神功皇后 三韓征伐の後は、三韓 我に朝貢し、其の文物を輸入して我 國運の進歩を助けたり。されど年を経るに隨(したが)いて、叛乱しばしば三韓に起り、我は之が鎮撫に疲るるの有様となりしが、支那に隋起り、やがて唐 之に代りて其の勢を三韓に及ぼすに至り、其の統御(とうぎょ・全体をまとめ支配すること)頗(すこぶ)る困難の形勢となりぬ。加之(しかのみならず)我には内治の急にすべきものありしかば、天智天皇は其の差遣の皇軍を召還し給い、一方には大に国防を修めて唐に備え、一方には等の請を許して其の交を修め給えり。
〇天智天皇の御事蹟
舒明天皇の御子にして初め葛城皇子と称し、一に中大兄皇子と申す。天皇 英明にして蘇我氏の専横を憤り中臣鎌足と図りて之を滅し給う(コチラ参照)。孝徳天皇 即位に及び皇太子となりて朝政を輔(たす)け、英断を以て大化改新(コチラ参照)を決行し給う。かくて斎明天皇の朝なほ皇太子となりて政を佐(たす)け給う。此の時 百済 急を告げて救を乞い、斉明天皇 九州に行幸し給うに及び、其の四征に従い給う。たまたま斎明天皇 行宮に崩じ給うや、天皇 素服(そふく・凶時に際して着用する喪服の一種)して制を称し、将を遣わして唐軍と戦わしめ給いしが、皇軍 利ならずして百済 遂に亡ぶ。天皇乃ち軍を還えしてますます西國の防備を修め、6年(皇紀1327年)都を近江の大津に遷し、翌年 即位の禮(礼)を行わせ給う。是より先、天皇令を定め冠位を制し給いしが後、朝禮を定め、戸籍を造り学校を興し給う。其の御治蹟 甚だ著しかりしかば、後世 中興の英主と称し奉る。天皇在位11年 御年46にて崩じ給う。


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◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! 〜 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
大化の新政

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(2017.2.15)  (戻る)
近代国家の礎ともなった輝かしい大化の新政なのですが、古代 氏族制度における権力争いの総括的な流れ、その行き付いた先ともいえましょう。そして肝心なのが、大化の新政(改新)こそ本来あるべき天皇親政を奪回したものであったということ。現代の教育ではここが教えられておらず、ただ単に皇室をめぐる権力争いにすぎなかったかのようにされてますが、本質は天皇親政の奪回、ここなのです。そしてそれは、鎌倉幕府に始まる武家政治によって崩され、しばらく天皇親政の体制はないがしろにされ、明治維新によって取り返したのです。私が何度も言ってる天皇親政こそ日本の正当な政治制度である、その意味がここに来てようやくわかっていただけるのではないでしょうか。戦前の歴史教育における重要な点はそこであり、そして戦後また天皇親政が打ち倒されてしまったということ。だから敗戦後に押し付けられた民主主義制度による現政権なんてものは、利にくらんだ幕府・武家政治と変わらぬ邪な賊軍政治にすぎないのです。
それと「“天皇制(政)”なんてなかった。戦前に打倒 “天皇政”を掲げて共産主義者が作った言葉だ」なんて言って、天皇政という言葉を消し去ろうとしてる者がよくいますよね。あれって日本の歴史がよくわからなくなってしまった現代の日本人に対するデマ、戦前はこの通り天皇親政、つまり天皇政だったんですよ。陛下が政治の中心だったのですから。それが敗戦によって廃されたわけで、もう既に天皇政は打倒されたのです。だから彼らは今さら天皇政という言葉が使われるのを嫌がり、天皇政なんて元からなかったんだってことにしたいわけ。それゆえ「天皇政なんてなかった」と拘る連中こそエセ保守であり、とにかく彼らは天皇政が日本に存在しなかったことにしたい連中ですからね。「天皇政の言葉を使うなって、なんかおかしなことにこだわってる人たちだな」って奇妙に感じられてた方も多いのではないかと思いますが、こういうことなので惑わされちゃダメですよ。もちろんそういう人々は戦後民主主義狂信の左翼であり、他に言ってること見てれば何か変に感じてくるでしょうから、すぐわかりますよ。疑問が一つ解けたでしょう? だから日本の歴史を顧みて真の保守であるなら「天皇政を守れ!天皇政復活!」こそ正しいスローガンなのです。

そして大化の改新といえば今も戸籍や班田収授があげられますが、平安時代中期までは継続されていた奴婢の存在等の記録も生々しく、皆様、興味深い内容かも。何度も禁止された奴婢制度や人身売買、平安中期以降は表向きなくなってるはずですが密かに利用されてるとこもあったようです。また兵庫県の由来は、天智天皇が其の地を兵器の倉庫(兵庫)としていたことに始まることも今日の内容から知れます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

國勢の推移
古来の官職―家々 之を世襲す―大臣(オホオミ)・大連(オホムラジ)・國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等 土地・人民の私有―中央 及び地方の豪族の威権―弊害 甚だ多くして皇威 軽し―大臣・大連(政権を擅(ほしいまま)にせしもの)の滅亡―學問(学問)及び佛教(仏教)・技術の伝来(韓土より)―支那の文物 直に輸入す―留学生の帰朝―國勢の推移―政治改革の必要。


新政の端緒
推古(スイコ)天皇 孝徳(コウトク)天皇に御譲位―難波に遷都―皇太子 中大兄皇子の輔佐(補佐)―蘇我氏 滅亡の後 天皇の御親政―都鄙(とひ・都と田舎)共に政治上の弊害多し―皇太子 鎌足に謀りて政治の改革―皇太子の御英断―支那の制度に倣い我が舊習(きゅうしゅう・旧習)を参酌(さんしゃく・他と比べ合わせて参考にする)す―中臣鎌足 内大臣に任ず―安倍内麿(アベノウチマロ)左大臣に任ず―蘇我石川麿 右大臣に任ず―天皇 御即位の年を大化元年とす(年号の始)留学生 高向玄理(タカムコノゲンリ)・僧 旻(ミン)の國(国)博士―東國の國司に田畝(でんぽ・たはた)を校し(校する=比べて考える意。校合(きょうごう)する)戸籍を造らしむ―朝廷に鐘匱(しょうき=かねひつ・その首長を介して民の訴状を匱に投書させ、訴えが取り上げられない時は訴人に鐘を打たせるためのもの)を設けて訴に便ならしむ―奴婢の法を定むー使を諸国に遣わして兵器を収めしむ―土地の私賣(買)を禁ず。


新政の詔 下る
豪族 恣(ほしいまま)に土地人民を私有す―勢力者の兼併(けんぺい・他の所有地や国を併合すること)―皇威の不振―宿弊(年来の悪習)の矯正―新政の詔 下る(大化2年)。


新政の大要
私有の土地・人民を朝廷に収む―食封(じきふ)又は布帛(ふはく)を賜わる―京都及び國郡の制を定む―畿内を區畫(区画)し地方を國・郡・里に分つ―戸籍を作り口分田(くぶんでん)の制を定む(班田収授法)―旧来の貢・徭役(ようえき)をやめ租・庸・調の税法を定む―國司・郡司を置く―旧國造 中のものを郡司に選抜す―國司は京都より交代赴任(ふにん)す―要地に関塞(せきそこ・関所)を設(もう)く―九州に防人(さきもり)を置く―驛馬(えきば・駅馬)・傳馬(でんま・伝馬)の制を立つ。


中央集権の基礎固定
八省・百官の設置―新に官位・礼法を定む―才能によりて官職を授く―人才 登庸(用)の道開く―中央集権の基礎固定す―種々の制度また備わる。


〇上古 官職の世襲
我が國の上古は家々一定の職業ありて、代々 之を相つぐの俗あり。即ち大伴部・物部は兵士となり、中臣部・斎部は祭祀に従い、玉作部は玉を作り、土師部は土器を製するなど、皆 定まれる職ありて之を世襲し、而(しか)も各部民には之をすぶるものありて、また之を家職として世襲す。其の大伴氏・物部氏の如きは兵士を卒ゐて(兵士を集めて)宮中を警衛し、中臣氏・斎部氏の如きは祭祀を主(つかさ)どりて、以て各朝廷に仕え奉り、又 大伴・物部両氏の連の家に出でて大政に参与せるものを大連と云い、蘇我氏等の臣の家に出でて大政に参与せるものを大臣と云う。是等の官職は國造(コチラ参照)などと共に子孫 皆 之を世襲したり。
〇大臣・大連等の擅権(せんけん・専権)と其の衰亡
大臣・大連・国造・縣主等 皆 其の官職を世襲し、年をふるに伴いて多くの土地・人民を私有し、従いて威権を恣にし専横なること甚だしくなりぬ。中にも大連の職に在りし家柄にて、大伴氏は欽明天皇の御代に金村の隠退(いんたい)せしより顯(あら)われず、物部氏は用明天皇の御代に至り守屋 蘇我氏の為に亡ぼされぬ。是より大連の職 久しくたゆ。而して大臣の職に在りし家柄は、武内宿禰(タケノウチノスクネ)の後に葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の諸氏ありしが、葛城氏は圓(つぶら・円)安康(アンコウ)天皇の崩後に誅せられ、其の一代にしてまた出でず。平群氏も眞鳥(まとり)仁賢(ニンケン)天皇の崩後に殺され、其の一代にして亡び、巨勢氏も継体天皇の御代に男人(ヲヒト)出でし後また顯(あら)われず。尋(つい)で蘇我稲目の大臣となるや政権を擅(ほしいまま)にし、其の子 蝦夷 其の孫 入鹿 大臣の職に在りて無道なること甚だしかりしが、蝦夷・入鹿の父子 遂に誅に伏して大化の改新 行われ、ここに大臣・大連の職すたれて其の擅権(専権・思うままに権力をふりまわすこと)の如き弊害 全くやむに至れり。
〇年号(年號)の始
支那にて年號を定めしは、漢の考武帝の世(皇紀521年)に建元(ケンゲン)の號を立てしを始とす。我が國にして、大化の改新以前に僧侶の間には、私に年號をとなへ居りしことありて。之を世に私年號(しねんごう)という。されど支那の例にならいて、朝廷より公に年號を定め給いしは、實(実)に大化を以て始なりとす。是より後は、天皇の御即位 其の他 吉凶の大事等によりて、常に改元ありしが、明治の昭代に及び一世一元(一せい一げん)と定められたり。
〇校田(こうでん)と造戸籍
是より先き、権力ある者は恣に土地・人民を私有して、田地の制もすたれ、戸籍の法もみだれたりき。大化元年八月、天皇 東國等の國司(こくし)を召し、詔して各其の管内の田地を校(しらぶ)し戸籍を造らしめ給い、又 大和の國の六縣に使を遣わし、戸籍を造り田地を検せしめ給えり。是れ等はやがて大化改新の政治の行わせらるる先軀(駆・さきがけ)とも云うべきなり。
〇鐘匱(しょうき=かねひつ)の設置
大化元年八月、朝廷に鐘(かね)匱(はこ)とを設け、詔し給いて曰く、若し憂え訴うる人あらば、各尊長などに考えて之を奏すべく、尊長などもなくして、訴うる所を審にせざるものに、牒(かきつけ)を匱に納るれば、各其の罪を以て罰せん、其の牒を収むるものは、朝夕に牒を取りて内裏に奏すべし、或は官吏 怠りて理ならず、或は阿黨(あとう・阿党・権力のある者におもねり組すること)して訴を曲ぐることあらば以て鐘をつくべしと。のたまい給う。
〇奴婢の法
大化元年八月、奴婢の法を定め給う。即ち良男良女の生む所の子は其の父につけ、良男の婢によりて生む所の子は其の婢につけ、良女奴によりて生む所の子は其の奴につけ、奴婢の生む所の子は其の婢につけ、寺家の子は良人の法にしたがい、若し別に奴婢に入れば、奴婢法にしたがうべしと定めさせらる。
〇兵器を収む
大化元年八月、閑曠(かんこう・あき地)の所に兵庫(つわものぐら)を作りて國郡に在る刀・甲・弓・矢を収め、近く蝦夷と境を接する邊國(辺国)には、盡(ことごと)く其の武器を集め、なほ本の主にあづけしめ給い、翌九月 使を諸国に遣わして種々の兵器を集めしめ給う。
〇土地 私賣(売)の禁
孝徳天皇即位の頃は、天下の百姓なほ乏しくして、勢力あるものは土地を分割して私有とし、百姓に売与して年々其の儥を求む。是に於て大化元年九月、詔して土地を賣るを禁じ、妄(みだ)りに主となりて劣弱のものを兼併(他の所有地や国を併合する)することなからしめ給う。
〇大化改新の詔
大化2年正月賀正(年始)の禮 崋るや、改新の詔を下し給う。其の一曰く、昔 天皇等の立てし所の子代の民(名を後世に伝うる為に設けし民)處々(ところどころ)の屯倉(みやけ・コチラ参照)及び別に臣・連・國造等の有せる民と處々の土地とを罷(や)めよ。其の二曰く、初めて京師(けいし・みやこ)を修め、畿内に國司・郡司・関塞(せきそこ)片候・防人(さきもり)驛馬(えきば)・傳馬(てんま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り山河を定めよ。凡そ京には坊(まち)毎に長を置き、四坊に令一人を置き、戸口を検し好非を察することを掌らしむ。其の三に曰く、初めて戸籍計帳(数を記す帳 班田収授之法を造る。凡そ五十戸を里とし毎里に長を置き、戸口を検し農業を課し悲違(法に背くこと)を禁じ賦役をを催さしむ。其の四に曰く、舊(旧)い賦役の法をやめて祖・庸・調の法を行う。
〇食封・布帛(織物・きれじ)の下賜
食封(じきふ)は勲功・位階・職分あるものに賜わる課戸(かこ・戸中に調庸を諭す男、即ち其の課に一人以上ある戸を云う)を云う。大化改新の時、一般に私有の土地・人民を収めて公地・公民とし給いしを以て、大夫(後の五位以上のもの)以上には各差を以て食封を賜い、其の他の百官人民には各差を以て布帛(ふはく)を賜う。後世 食封には、位封・職封・功封の別定まり、位封(一品 八百戸より四品 三百戸に至る正一位 三百戸より従三位百戸に至る)は位階あるものに、職封(太政大臣三千戸より大納言八百戸に至る)は官職あるものに、功封(五位功を以てす大功は三世に伝え上功二世に伝え中功子に伝え下功一代限)に勲功あるものに各賜りたり。
〇畿内の区画
東は名墾の横川(伊賀の名墾川(西川)(か)より、南は紀伊の兄山(せのやま 紀州附近か)より、西は播磨の赤石の櫛淵(今の明石郡)より、北は近江の狭々波の合坂山(今の滋賀群)までとす。此の時未だ国を定めず、唯 京都に近き四方の地を以て畿内を確定せしなり。
〇郡里の制
凡そ50戸を一里とし、其の40里を大群とし、30里以下4里以上を中群とし、3里を小郡とす、大寶(宝)以後には大上中下小の五等に分ち、20里以下16里を大郡とし、12里以上を上郡とし、8里以上を中群とし、4里を下郡とし、2里以上を小郡とす。
〇班田収授の法
此の時 班田収授の法を設け、天下の人民に男女ともに一定の田地を班(わか)ち授け、其の人 死すれば之を収めたり。之を区分田(くぶんでん)という。大寶(宝)令によれば、男子 生れて6歳に至れば、田二段を班ち授け、女には其の三分の一を減じて給す。
〇租・庸・調
租は田地の収穫の一部を納めしめ、調は織物等の産物を納めしめ、庸は力役の代りに布米を納めしむるを云う。即ち租は凡そ段毎に稲二束二把を納め、調は凡そ田一町毎に、絹一丈 䊶二丈、戸別に布 一丈二尺を納め、調の副物として鹽(塩)等土地の産物を納め、庸は凡そ戸別に租一丈二尺 米五斗を納むる定めとす。後しばしば改正ありて、大宝令の制には、租は田一段毎に稲二束二把、調は正丁一人歳役十日の代りに、布二丈六尺の割合にて、納むるを定めとす。而して稲一束は舂五升を得(舂とは穀物などを臼に入れてつくこと)、当時の一升は現今の枡にて四合餘に当る。
〇國司・郡司
國司は朝廷より諸國に置ける地方官の称にして、各國衛(役所)に在り、勅を奉じて其の管内の政務を行うものを云う。上古には國宰とも書して、之をクニノミコトモチとよび、早く神功皇后摂政の時に、新羅の宰を置き給い、仁徳天皇の時に遠江の國司、雄略天皇の時に任那の國司を置き給いしも、未だ一般に設けられしにあらず。大化元年 新に始めて東國に國司を置かれ、翌2年 畿内に之を置かれしより諸国一般に國司あるに至る。かくて大宝令によりて大に備わり、國衛に在りて政務を主(つかさど)れるものは、守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さくわん)の四部官の総称となり、年限も6年に定めらる。後 國司の年限は4年となり、また6年にふくし更に弘仁(こうにん)6年に4年となり天長元年介以上6年となりしが、承和(じょうわ)2年以後は4年となる。郡司は國司の下に属したる郡家(郡役所を云いまた郡院とも云う)に在りて各郡内の政務を行うものを云う。孝徳天皇の大化2年 之を置き、國造の清廉にして時務(その時々の急務)に堪うるものを其の長官とし、聰敏(そうびん・賢く物わかりが早いこと)にして書算に巧みなるものを其の下役に任ず。大宝令にて郡司も大領(かみ)小領(すけ)主政(じょう)主帳(さくわん)の四部官を定められ、其の下に郡の大小によりて書生・案主(あんず)を置かる。而して郡司は世襲たり。
〇關塞
關(関)は塞(せ)く意なり。国境及び要害の地に設けたる門にして之に吏を置きて往来の人をせきて糺(ただ)すを云う。天武天皇の御代に鈴鹿關・龍田山・大坂山の關など見えたり。
〇驛馬・傳馬
驛馬(えきば)は紅葉にて官吏の諸国に赴く為に、各駅に備え置く馬を云う。之をハユマと云えるは、ハヤウマの約にて早馬の義なり。傳馬(てんま)もまた官吏の乗用に供する為に備えたる馬なり。驛馬と傳馬とは、同じく管理の公用の為に乗るものなれども、事急なれば驛馬に乗り、事緩なれば傳馬に乗るを定とす。故に傳馬をまた早馬といえれど、驛馬とは其の間に軽重の差ありしなり。驛馬・傳馬を使用する時は、官吏 其の賜わりたる鈴を鳴らして徴発のしるしとす。之を驛鈴と云う。
〇防人
サキモリと云うは、埼守の義にて邊(辺)要の地を守れる兵士を云う。早くより邊要を守れるものを置かれしが、未だ防人と称せず。大化2年に至り、始めて防人を定め置かる。大宝令に防人司を置きて之をすべしめ、諸国軍団の兵士を遣わして、三年間邊要(九州及び東國)の地を守らしめらる。其の後 廃地ありしが、対馬の如きは此の防人を弘安年間まで置かれたり。
〇大化の改新
既に前に掲げたる大化改新の詔 以下の各項の要領を云うなり。
〇大化の改新に重要なる人物
中大兄皇子の外に中臣鎌足・蘇我石川麿・僧 旻(ミン)・高向玄理等は改新に輿(よ)って大に力ありし人人なりとす。
〇本邦政治の三大変革
大化の改新と鎌倉幕府の創立と明治維新との三を以て政治上の三大変(變)革となす。大化改新は上古の氏族制度や部民(コチラ参照)制度を廃し、唐風に倣(なら)いて中央集権の制を採用し、上は官制より下は社会上の組織に至るまで広き範囲に亙れる改革なり。又 鎌倉幕府の創立は、久しき間 実力を養い来りし武門の朝臣に代りて天下の政権を掌握し、此に簡易なる武家政治の始をなしたるものにして、未曽有の変革なり。又 明治維新は、源頼朝の武家政治を始めしより、七百年間 天下の政権を掌握したりし幕府倒れて、武家封建の制度壊れ、政権 再び朝廷に還りて古の王政に復し諸藩の改革 行われ、泰西(西洋)の文物輸入せられて、全く従来の面目を一新したる変革なりとす。
〇大化改新と明治維新と相似の點(点)の比較
大化改新と明治維新とは、我が國 政治上の大変革にして、其の旨 赴の同一なるのみならず、其の施設もまた相似の点 少しとせず。
(1)蘇我氏の専横と徳川幕府の政権を掌握せることと何れも久しく、其の討滅と政権訪韓とによりて、並びに旧来の積弊(長い間に積もり重なった弊害)を一洗して改新の気運を啓(ひら)くに至る。
(2)中央集権の断行に当り、大化改新には有力者の私有せる土地・人民を公収し、明治維新にありては、各藩主の領有せる封土を朝廷に納れしむ。
(3)諸般の制度を改むるに及び、大化の改新には、従来の國造・縣主等を廃して國司・郡司を置き、畿内を区画し、郡・里の制を定め、租・庸・調の法を設け、驛馬・傳馬を置く、明治維新には、先づ徳川氏 直轄の地に府・藩・懸を置き、諸藩の封土を奉還するに及び、一般に知事・郡長を配布し、東京を奠(さだ)め、鉄道・港湾を設けて交通を便利となす。
(4)大化改新には、才幹あるものは國造と雖(いえど)も之を郡司に任用し、廣(広)く人材を選抜せしが、明治維新の施政方針の第一條に、広く会議を興し萬機を公論に決すべしと宣し給いて、広く天下の人才を集め給い、而も大化改新には、制度の隋唐の文物・典章に斟酌(しんしゃく・あれこれ照らし合わせて取捨すること)すること多くして、後、大宝令の制定となり、明治維新には、泰西の法礼、規則を参考すること少なからずして、やがて憲法の発布をも見るに至る。
〇大化新政の要領
本章に記せる大化改新の詔の大略より、以下 防人設置に至るまでの各事項は、即ち大化改新の要領なりとす。。


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