日本の面影

Glimpses of Japan
失われる日本人の精神性に、将来を憂う  リンクフリー

真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

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(2017.2.2) (戻る)
古代日本帝国は一大転換期を迎え、いよいよクライマックス、任那滅亡から朝鮮半島における覇権喪失への流れに入っていきます。韓土の日本領 任那の攻防が生々しく描かれ、倭国(古代日本)に対する新羅の不逞により、何度も決行された新羅征伐。韓土をめぐってのめまぐるしい攻防、その失政や日本軍におけるいざこざ、そして任那を失ってしまっていった詳細な経緯が記録されてます。「新羅の大将、この尻 喰らえ」の古代日本 最大の英雄 伊企儺(イキナ)、そしてその妻 大葉子と、父の亡骸を抱いて死す伊企儺の子 舅子の悲哀。他にも、現代ではまるで教えられなくなってしまった古代日本史の武将達が今回、続々と登場しますよ。イキナについて詳しくはコチラもご参照を。
これほど克明な記録を、ただの作り話だの神話だのとのたまう現代の学者どもはすべて誅すべき連中です。

そして失意の中、崩じた欽明天皇の任那復興への熱い思いも、こちらにより詳しく載せてありますよ。ちなみに、ここの本文中に出てくるような「我」という言葉は、陛下や倭国のことを意味するのが基本ですね。

下図左は任那 最盛期の朝鮮半島、そして右は百済へ徐々に割譲された後、新羅に滅ぼされるまでの任那 変遷図。元々、私がコチラで初掲載したものですが、「任那といえばコレ」って風に、今では方々で利用されてますね ^▽^) 尚、朝鮮半島南部にはいくつもの古代日本人特有の前方後円墳が発掘されてますが、コチラで紹介の韓国 光州の巨大なツイン前方後円墳は半島南西部にあり、最盛期の任那なら任那領内、少し後なら百済領内ということになります。
また、この地図では新羅が356年〜となってますが、これは現代の一般年表でそうなっており、その年は今の朝鮮人につながる金氏の新羅となった年。ここの記事にある通り、三韓のうち新羅の建国が最も古いとされる所以、『新羅本紀』では(倭人系ともいわれる)昔氏、朴氏にまで遡ることになり、それゆえ新羅が最も古いとされるのです。新羅建国に倭人が関わってたという建国神話を消したいから、今では金氏の356年にされているのでしょうね。

任那、そして百済まで滅ぼした憎っくき新羅こそ、今の朝鮮人の国。韓国では高給ホテルの代名詞でもある新羅ホテルのように、韓民族を象徴する国家として新羅は冠されてます。
古代日朝史の関係についてヤケにしっかり作りこまれたサイトとか、目にすることありますが、日本人のルーツを破壊するためデタラメ書かれてるところが多いです。日本人である新羅が朝鮮人である百済を滅ぼしたとか、確信的な悪意の塊といえる言説……出典元がないようなのはまず怪しんでください。テキトー好き勝手、一次資料を示して書かれてないところはウソ八百、まず信用なりません。同じ類で最近よくあるのが、英米・金融勢力による日本乗っ取り防ぐために先人は日本分裂を回避して明治維新を達成したのに、英米や金融勢力の目的を達成させるため明治維新がなされたとか、正に本末転倒。よくバナー広告でその種のデタラメ史観ふり撒いてるようなところはアッチ系、やってる連中もまず日本人じゃない。西ナンチャラとか。なぜかあいつらは資金が豊富。その種のサイトは無知層・情弱系をタラしこんで日本人の感覚をブッ壊すための左翼系陰謀論サイトと同じく、日本の先人たちが義ではなく私利のためだけに動いてたかのような価値観流布、偉大な先人貶め、日本人の魂 破壊、パッパラパー化のため用意されています。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

征韓後 韓土の形勢
任那・百済は常に服事す―新羅は不臣―荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)の新羅征伐―上毛野(カミツケヌ)・竹葉瀬(タケハセ)の問罪(新羅闕貢・けっこう)、紀小弓(キノヲユミ)・蘇我韓子(ソガノカラコ)・大伴談(オホトモノカタリ)の新羅征伐―大伴談の戦死―紀小弓の病死―蘇我韓子の遭害(そうがい)―高句麗 朝貢を怠る―高句麗 百済を滅す―百済の再興―高句麗の征伐。


我が鎭将の反亂(乱)
任那國司 吉備田狭(キビノタサ)の反―紀大磐(キノオホイワ)の反。


大伴金村の失政
大伴金村(オホトモノカナムラ)の威權(権)―韓土の処置を誤る―任那の地を百済に割与す―任那 我を怨む―日本府の動揺―金村の勢望衰う。


磐井の反
新羅 屢(しばしば)任那を侵す―近江毛野(オウミノケヌ)の差遣(さけん)―新羅 筑紫國造 磐井(いわゐ)に結ぶ―磐井 毛野の軍を遮(さえぎ)る―物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)の磐井討伐―御井(みゐ)郡の戦―磐井の誅。


任那日本府の滅亡
新羅 益(ますます)百済・任那を侵す―再び近江毛野遣わさる―毛野 鎭撫の策を誤まる―韓土の動揺―毛野の召還―大伴磐(オホトモノイワ)・同狭手彦(サデヒコ) 任那を救う―日本府の滅亡―調伊企儺(ツギノイキナ)の義烈(ぎれつ)―伊企儺の妻 大葉子(オホバコ)―紀男麻呂(キノヲマロ)・河邊瓊缶(カワベノニエ)の新羅征伐―皇軍の不利 瓊缶 虜となる―任那回復の遺詔(いしょう)―任那の回復成らず―任那の日本府 永く絶ゆ。


〇新羅の無礼
新羅は三韓中、其の建国 最も早く、百済と隣睦(りんぼく)の好を修めしことあるも、其の富強を恃(たの)みて、屢(しばしば)百済に入寇す。神功皇后の摂政47年、百済王初めて我に朝貢す。此の時、新羅の使者、其の貢物の珍異(めづらし)なるを見て之を奪い、新羅の貢物と称して献ず。朝廷 乃ち千熊長彦(チクマノナガヒコ)をして、之を責めしめ給う。是より後も常に我に無礼のこと多し。
〇荒田別・鹿我別の新羅征伐
新羅 百済の朝貢を奪うや、朝廷 荒田別(アラタワケ)・鹿我別(カガワケ)をして百済の使者と共に渡韓せしめ給う。両将 乃ち大に新羅を撃破し、安羅(あら)・多羅(たら)・加羅(から)等の七国を定め、南蠻(蛮)の忱彌多禮(枕弥多礼・とむたれ)の地を取りて百済に与う。百済主 大に喜び、永く西蕃(繁・せいばん)と称し春秋に朝貢を絶たざることを盟(ちか)い、且 千熊長彦に使者附して送還す。
〇紀小弓等の新羅征伐
新羅 既に撃破せられしも、後なほ朝せず。朝廷 葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)をして之を討たしめ給う。雄略天皇の御代に至り、新羅また朝貢せざるのみならず、高麗(高句麗のこと)の貢を止め、且 百済を侵しぬ。天皇の9年 紀小弓(キノヲユミ)、蘇我韓子(カラコ)、大伴談(カタリ)、同 小鹿火(ヲカビ)の四将をして之を伐たしめ給う。小弓等新羅の諸城を破り、喙(トク・任那の構成国)の地を略(ほ)ぼ定めしも未だ悉(ことごと)く下す能わず、談 戦死して小弓もまた病死す。小弓の子 大磐(オホイワ)専ら威命を用いて、小鹿火及韓子と隙(すきま)を生ぜしが、大磐 遂に韓子を殺しぬ。かくして此の役に皇軍 終に戦功を奏すること能わざりき。
〇吉備田狭の反
雄略天皇の7年、吉備田狭(キビノタサ) 任那国司に任ぜらる。田狭 事によりて天皇を怨み奉り、援を求めて新羅に入らんとす。時に新羅朝貢せず、天皇 田狭の子 弟君(オトギミ)等をして新羅を伐たしめ給う。かくて弟君 既に百済に入りしが、路遠きを思い、新羅を伐たずして還らんとす。田狭 之を知り、竊(ひそか)に人を百済に遣わし、吾巳に任那に拠(よ)りて日本に帰らず、汝もまた百済に寄りて反せんことを勧めしむ。弟君の妻 樟媛(クスヒメ)其の謀叛を悪(にく)み、密に弟君を殺して還りぬ。
〇紀大磐の反
父 小弓の新羅征伐の陣中に病没するや、小鹿火の掌れる兵馬の權(権)を執りて、専ら威令を用う。小鹿火 之を怨み、韓子に詐(いつわ)り告げて曰く、大磐 将に韓子の掌れる兵馬の權をも奪わんとすと。韓子また大磐を悪む。かくて韓子 大磐を殺さんとせしが、却って大磐の為に殺さる。顕宗天皇の3年に至り、大磐 任那に拠りて高麗に通じ、将に三韓に王たらんとして宮府を設け、又百済の将を殺さんとす。百済王 大に怒りて大磐を殺さんとせしが、大磐 逆へ撃ちて一度は百済の軍を破る。既にして大磐は兵つき力つきて事の済らざるを見て任那より還る。
〇高句麗 百済を滅す
高句麗は早くより朝貢せず、応神天皇の97年、使を遣わして朝貢せしむるや、其の上表文に「高麗王 教 日本国」(高麗王 日本国に教ゆ)と記する程にて、固より我を重んぜず。かくて高句麗の百済と干戈(かんか=戦)を交えしが、雄略天皇の20年、高麗王 大軍を出して遂に百済を滅しぬ。翌年 天皇 之を聞き、久麻那利(くまなり)の地を百済に賜いて、其の国を復興せしめ給う。越えて23年、筑紫の軍士 五百人を差遣して、東城(トウジョウ)王を百済に立てしめ舟師を発して高麗を伐たしめ給う。
〇大伴金村と其の失政
金村は武持(たけもち)の曾孫にして、談の子なり。仁賢天皇の崩じ給うや、大臣 平群眞鳥(マトリ)専横にして叛を図る。金村 太子に謂いて之を討滅し、太子(武烈天皇)即位に及びて大連となる。かくて武烈天皇 崩ずるに及び、金村 繼體(ケイタイ・継体)天皇を迎え立て、大臣 許勢男人(コゼノオヒト)大連 物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)と共に国勢を執り、威権 甚だ熾(さかん)なりき。6年 百済の使 朝貢し、任那の哆唎(タリ)、牟婁(ムロ)等 四縣の地を得んことを奏請す。哆唎の國守 穂積押山(ホサカノオシヤマ・ホヅミノオシヤマ)また百済に之を与うるの利なるを主張す。時に大兄皇子は、之を止めんとし給いしが及ばず。是より任那 我を怨み、新羅ますます侵略を恣(ほしいまま)にし、韓土の政策 大に困難となりて、日本府も動揺し、金村・押山 百済の賄賂をうけし流言さえありて、金村の勢 望大に衰う。
〇磐井の反
継体天皇の21年、天皇 近江毛野に兵6万を率いて任那に往き、新羅の侵地をかえさしめ給う。時に筑紫國造の磐井なるもの叛を図らんとす。新羅 之を知りて、密に賄賂を贈り、毛野の軍を遮(さえぎ)り止めしむ。磐井 乃ち火・豊(肥豊)の地に拠り、外は海路を支えて三韓の朝貢を誘致し、内は毛野の軍を止めんとせり。
〇物部麁鹿火と磐井の誅
麁鹿火は伊コ弗(イコフツ・コはくさかんむりに呂)の玄孫にして、父を麻佐良(マサラ)と云う。仁賢天皇以下の五朝に仕えて大連となる。継体天皇の21年 磐井の反するや、近江 毛野軍を任那に進むることを得ず。天皇 磐井征伐の将を群臣に問わせ給う。金村等、麁鹿火の正直にして兵事に通ずること其の右に出づるものなきを奏す、天皇 乃ち親(みずか)ら斧鉞(ふえつ)を授け、勅し給うて曰く、長門以東は朕 之を制せん、筑紫以西は汝 之を制せよと。翌年11月、麁鹿火 進んで磐井と筑紫の御井郡(筑後三井郡)に戦いて之を斬る。餘衆もまたことごとく平ぐ、宣化(センカ)天皇の元年に至りて麁鹿火 薨ず。
〇近江毛野の召還
磐井の誅せられし翌年、朝廷 再び毛野を任那に遣わし給う。毛野の任那に至るや、新羅・百済 各其の臣を遣わして命をきく、時に任那王来朝し、新羅の侵地を訴えて救を請う。朝廷 毛野に勅して両国を和解せしめ給いしも、両国各使者を遣わして国王来らず、毛野 大に怒りて之を卻(しりぞ)けしかば、使者 怖れ帰りて各国王に告ぐ、新羅 更に使者に兵三千を附して来らしめ勅を請(こ)わしむ。毛野 其の兵勢の熾なるを見て出でず。かくて使者留まること久しく、兵食乏しくなりしかば、近邑を掠め人畜を驅(か・駆)りて帰る。其の後、毛野 韓土に留まる二年、怠惰にして事を視ず人民 之を怨む。天皇 乃ち使を遣わして之を召し給う。毛野 恐れて還ること能わず、屢(しばしば)新羅 百済の兵に攻撃せられ、後 対馬に至りて病没す。
〇大伴磐と同狭手彦
磐(イワ)・狭手彦(サデヒコ)は兄弟にして金村の子なり。宣化天皇の2年、新羅 任那を侵す、金村 詔をうけて、磐・狭手彦をして任那を救わしむ。磐は筑紫に留り、其の国政をすべて三韓に備え、狭手彦は任那を鎭し且 百済を救う。
欽明(キンメイ)天皇23年、狭手彦 将となって高麗を討ち、百済の計を以て大に之を破り、遂に高麗の王宮に入り、珍寶(宝)及七織帳・鐡(鉄)屋を獲て帰る。其の七織帳を天皇に上りて甲及刀等を蘇我稲目に与え、鐡屋を長安寺に置く。
〇調伊企儺(ツギノイキナ)
努理使主(ヌリノオミ・コチラ参照)の後なり。人となり勇烈なり。欽明天皇の御代、紀男麿(きのおまろ)の軍に従いて新羅の罪を問う。されど皇軍 利ならずして、伊企儺 執(とら)えらる。此の時 伊企儺 屈せざりしかば新羅の将 刀を抜きて之に逼(せま)り、其の尻を日本に向けて日本の将 之を食えと呼ばしむ。伊企儺 乃ち、新羅王 我が尻を食えと大呼す。新羅王 大に怒りてますます侵辱を加えしも、伊企儺なほ前の如く之を呼びて變(変)せず、遂に殺さる。
〇大葉子(オホバコ)
調伊企儺の妻なり。伊企儺の難に遭いし時、其の子 舅子も其の父の屍を抱きて死し、大葉子もまた擒(とりこ)にせらる。之を痛める歌に「からくにの きのへにたちて 大葉子は ひれふらすも やまとへむきて」と。其の日本の方をしたひて城の上に立ちて領巾(ひれ・両肩にかけて垂らす女性装身具)をふるは実にいたましきことなり。
〇紀男麿の新羅征伐
欽明天皇の23年、新羅 任那を侵して遂に日本府を滅しぬ。朝廷 紀男麿(キノヲマロ)を将とし、副将 河邊瓊缶(カワベノニエ)と共に赴き、新羅 任那を攻むるの状を問わしめ給う。其の任那に至るや新羅 我が軍の計を知り、卒(つい)に大兵を起して来り戦う。尋(つい)で兵 敗れて降を乞う。男麿 勝を取り、師を旋(かえ)して百済の營(営)に入り、其の軽進を戒む。河邊瓊缶 独り転戦して進み、皆 之に捷(勝)つ。新羅 白旗を挙げて降る。瓊缶 其の意を覚(さと)らず。又 白旗を挙げて進む。新羅の将 之を逆へ撃ちて大に破り、遂に河邊瓊缶及其の妻を擒(とりこ)にせり。
〇任那 國司回復の遺詔
欽明天皇の32年、天皇 疾(や)み給う。皇太子を召し詔して曰く「朕が疾(やまい)甚し、後事を以て汝に屬(属)す、汝 新羅を討ちて任那を建つること、舊(旧)日の如くならしむべし、死も恨なし」とのたまいて、遂に崩じ給う。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 佛教の伝来と蘇我 物部 両氏の争

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ァ…鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  聖徳太子 支那へ使節派遣

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆『日本書紀』より、「(古代朝鮮半島の日本府)任那滅亡」

◆朝鮮人は、朝鮮半島に住んでいた古代日本人を蹂躙した侵略者!

◆家庭内における戦前の教育再現 〜 わが家で使ってる子供用教本 〜 修身と国語副読本

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』〜 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! 〜 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! 〜 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

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(2017.2.1)  (戻る)
ここまでお読みになってくれば、今までさんざん歴史を勉強してきたつもりが、結局、実は何も学んでいなかったんだってことに気づかれた方が多いと思います。戦後、断絶された日本の歴史教育、引き続いてまいります。今日は第6回。
現代では忘れ去られた、昔は有名だった仁徳天皇の治世。この話を読めば、なぜ仁徳天皇陵(右写真)があれほど大きいか、そのワケがつながっていくわけですね。皇室への敬意も自然と持てるようなるし。
少し前までは「世界最大のお墓の仁徳天皇陵」と教えられていたのに、今ではそうじゃなく、ただ「大山(だいせん)古墳」って教えられるようなってるのはご存知ですか? 私らからすると「大山古墳……なんじゃそりゃ」って感じですが、今の教育ではそんな風に、あの種の大きな古墳が天皇とは特に関係ないかのような教え方がされてるんですよ。天皇陛下の御陵だってことを今の学校では教えなくなってるのです。じゃあ、あれは何なのかって……ただ、何か不思議な盛り土だなって…… 宇宙人がとか、ユダヤがとか…… そして天皇を追っての殉死が禁じられた後、陛下に仕え最後まで共にすべき人々の身代わりとして御陵に一緒に納められた数々の埴輪群も、単なるお飾り、嗜好品にすぎない、魂のないただの文化財でしかないわけですね。だから攪乱ネタの近代史ばかりで騒いでるようじゃ、日本人のルーツをメチャメチャにされ、民族としての土台を失っていきますよと、私は前々から警告してるわけです。日本人が日本人であるために、古代史、神代こそ一番大事なんだって。今では陛下や皇族さえ、自分たちが何者であるのかすら忘れてしまっており、非常に憂うべき事態となってます。
そして、自分が殺めた相手の妻を妃としたことから我が誅されることになった天皇の話。陛下といえども、人としての在り方を考えさせられる、安康天皇に起きた眉輪王の変や、財を意味する「大蔵」の由来、また古くから皇室と関わりのあった養蚕や、陛下が激情を抑制するにあたり当時の皇后様がとられた役割など、興味深い話もいっぱいですよ。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

難波遷都
応神(オウジン)天皇の崩後 皇太子 稚郎子(ワキイラツコ)の譲位―御兄 大鷦鷯尊(オオササギノミコト)の御即位(仁徳天皇)―当時 韓土との交通繁し―難波(今の大阪)に遷都。


仁徳天皇の御仁政
高臺(たかきや・高台)より御望遠―炊煙少く百姓 窮乏す―三年間 租税を免ぜらる―皇居 久しく修理せられず―天皇の御倹約ー民力の休養―交通を便にし農業を勧めらるー民富みてよく治まる―仁徳天皇の御陵。

磐之媛皇后
磐之媛(イワノヒメ)皇后―武内宿禰(タケノウチノスクネ)の孫―履中(リチュウ)・反正(ハンゼイ)・允恭(インギョウ)三天皇のご降誕―武内宿禰の子孫繁栄(蘇我=ソガ・葛城=カツラギ・平群=ヘグリの諸氏)。


産業の御奨励
眉輪(マユワ)王の変―雄略(ユウリャク)天皇の御即位―天皇の御勇壮―諌(かん・いさめ)を容(い)れ政に励み給う―養蠶(蚕)を勧め 絹織の業を起さる―斎蔵(いみくら)・内蔵(うちくら)の外に大蔵(おほくら)の建立(三蔵分立)―蘇我満智(ソガノマチ)三蔵を掌(つかさど)る―(蘇我氏強大の基)


豊受大神宮
丹波より豊受(とようけ)大神を迎えらる―衣食(農桑)の榊―皇大(こうたい)神宮の傍に奉祀―外宮


幡梭姫(ハタビヒメ)皇后
皇后の御淑徳(ごしゅくとく)―内に天皇を助け又命により親(みずか)ら蚕を飼い給う―少子部栖軽(チイサコベスガル)の話


工業の進歩
呉より縫工・織工の女を召さる―百済より錦工・陶工・書工を招かる―衣服・家屋の発達―楼閣(ろうかく)の建築―上古の建築 漸(ようや)く改まる。


顕宗 仁賢 両天皇
雄略天皇の崩後 皇子 清寧(セイネイ)天皇の御即位―清寧天皇の崩後 履中天皇皇孫 顕宗(ケンゾウ) 仁賢(ニンケン)両天皇の御即位―民各業に安じ天下大に富む。


〇稚郎子(ワキイラツコ)皇子 (菟道稚郎子・ウジノワキイラツコ)
応神(應叩謀傾弔旅鳥劼砲靴董⊃瞭繊淵縫鵐肇)天皇の弟なり。応神天皇の84年 百済王の使 阿直岐(アジキ)の来るや、之に漢文を学び給い、翌年 王仁来るに及びまた之を師とし給う。97年 高麗王の使の朝貢するに当り、其の上表中に、高麗王 日本国に教ゆとありしかば、皇子 其の無礼を怒りて其の表を破り給う。天皇 固(もと)より皇子を愛し給い、109年 皇長子 大山守(オオヤマモリ)命をして、山川林野の事を掌らしめ給い、仁徳天皇(大鷦鷯尊・オホサザキノミコト)をして、皇太子を輔(たす)けしめ給う。応神天皇崩ずるに及び皇太子帝位に即き給わずして、之を大鷦鷯尊に譲り給う。尊は先帝の命あるを思いて、之を固辞し給う。かくて互に皇位を譲り給いて三年に及びしが、皇太子 遂に自殺し給う。是に於て、尊帝位につき給う。是を仁徳天皇と申す。
〇難波の遷都
神功皇后 三韓征伐の後、其の貢献の船を難波(今の大阪)の海に来らしめ給い、離宮を大隅(今の大阪の中にて高津宮の附近なるべし)に建て給いしが、仁徳天皇に至りて高津宮(今の大阪玉造石山の附近なるべし)に遷(うつ)り給いぬ。其の後 孝徳天皇の御代 再び長柄豊崎宮(ながらのとよさきのみや・今の天満川上 大阪城辺なるべく難波の宮も同所なるべし)に遷り給う。此の難波の遷都は、神武天皇の奠都(てんと)後、天智天皇の近江の志賀、元明天皇の大和の平城、桓武天皇の平安、明治天皇の東京の奠都と共に著名なるものとす。
〇眉輪王の変
安康(アンコウ)天皇は大泊瀬(オオハツセ)皇子の為に、大草香(オホクサカ)皇子の妹 幡梭(ハタヒ)皇女を聘(へい)せんとし給う。根使主(ネノオミ)使となりて、旨を大草香皇子に伝う。皇子 大に喜び私寳(宝)の押木曼縵(おしきのたまかづら)を捧げ給う。根使香主 之を奪いて己が寳(たから)とし、詐(いつわ)りて大草香皇子の命を奉せざる旨を奏上す。天皇 大に怒り、大草香皇子を圍(かこ)ましめて之を滅し、其の妻 中蒂(ナカシ)姫を宮中に納れ、やがて皇后とし給う。初め中蒂姫皇后は眉輪(マユワ)王を生みしが、是に至りて王もまた宮中に養わる。天皇一日皇后に語り給うて曰わく、朕 眉輪王を畏ると。王 楼下に在りて之を聞き、遂に天皇の熟睡し給うを伺いて、殺し奉るに至る。王 忽(たちま)ち誅に伏す。之を眉輪王の変(變)と云う。
〇三蔵分立
斎蔵(いみくら)内蔵(うちくら)大蔵(おほくら)を云う。斎蔵(いみくら)は斎(い・忌)み潔(きよ)めたるものを収むる場所にして、上古より之ありき。三韓征伐の後、韓よりの貢献多きにより、履中天皇の御代に、斎蔵の傍に内蔵を建てしめ給う。内蔵は内の蔵にて皇居内に物を収め置くの場所なり。此れ内蔵に収めし貢献物(こうけんもつ)は、安智使主・王仁に出納を記せしめらる。而して秦氏が貢献せしこのかた、諸国よりの貢調物も年々増加せしを以て、雄略天皇の御代に至り、別に大蔵を立てて之を収めしめ給う。かくて三蔵分立し蘇我満智(マち)をして之を主(つかさど)らしめらる。
〇蘇我満智
武内宿禰の孫にして、石川宿禰の子なり。履中天皇の御代に、平群木菟(ヘグリノツク)等と共に国政をとり行う。雄略天皇の御代に、更に三蔵を兼ね主(つかさど)らしめらる。是に於て蘇我氏 財政をも管するに至り、後に蘇我氏の強大となるの基をなせり。
〇豊受大神宮
伊勢の宇治山田市豊川町に在りて、衣食の神なり。初め天孫降臨の時、天照大神の詔にて、丹波の與謝(よさ)比沼の眞井(真井・まない・今の丹後中群五箇村に在り)に鎮座ありしが、雄略天皇の御代に至り、大神の託宣(おつげ)によりて、今の地に遷し奉り給う。後世 皇大神宮を内宮と云い、豊受大神宮を外宮と云う。古来 朝廷の御崇敬 甚だ厚く、二十年毎に改築ありて遷営せらる。臣民の崇敬もまた深く。参拝するもの絶ゆることなし。
〇幡梭皇后の御淑徳
雄略天皇の5年 葛城山に狩し給いし時、天皇 舎人(とねり)に一匹の暴猪を刺さしめ給う。舎人 恐れてにげ、猪 直に天皇にとびかかりしかば、天皇 弓にて之をさし止め、足をあげて踏み殺し給う。天皇乃ち舎人を責めて斬らんとし給いしに、皇后 之を諌め給いしかば、天皇 御心とけて舎人をゆるし「朕は狩して善言を得たり」とのたまい給う。皇后の常に天皇の御心を和らげ給えること知らる。皇后また天皇の命にて親(みずか)ら桑をとりて蠶(蚕)を養い、以て養蠶ををすすめ給えり。
〇少子部栖輕
天皇 養蚕を奨励し給い、蜾蠃(スガル)というものに、天下の蚕をあつめし給う。蚕は其の飼わる時にカヒコといい、基本の語は(こ)なり。よって栖輕(スガル)は蚕のコと子兒(児)のコとを誤りて、天下の小児をあつめて天皇に上る。天皇 大に笑わせ給い、其の小児を栖輕に賜りて養育せしめ給い、少子部連(ちいさこべのむらじ )の姓を賜わる。また以て天皇の農桑をすすめ給い、御仁愛の御心にとませ給うこと知らる。
〇仁徳・天智・聖武・醍醐 各天皇の都
仁徳天皇の都は難波遷都の條に見え、天智天皇は近江滋賀宮(今の滋賀群大津市)、聖武天皇は大和平城宮(添上=そえかみ・添下=そえじも(今生駒郡)両郡に跨(またが)る)に在しまし、醍醐天皇は山城平安(今の京都)に在しませり。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 朝鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡

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◆『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 〜 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本

◆戦後の歴史教育を捨てよう。 歴史教育 再興   ̄糞彿歛姑如\鐐阿旅饂法米本史)学習年表

◆日本神話の絵本について 〜 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆こないだまで、古代日本は朝鮮半島南部を支配していたと教えられていたのに 〜 日本府 任那を消し去った売国奴学者列伝 実は朝鮮人か!?

◆日本の童謡の世界は比類ない最高のもの 〜 それと子供には神話絵本も!

◆萌え系 日本神話がひどい件
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
朝鮮半島の内附 神功皇后の征伐 文物の伝来

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(2017.1.28) (戻る)
今回は、古代朝鮮半島の情勢、日本府 任那の由来、初の摂政となった神功皇后の新羅征伐など、興味深い内容がいっぱいですよ。また、ここでは韓土(朝鮮)よりいろんな文化人や職人(女)が来たという記録がありますが、勘違いしてならないのは、それらの人々が日本人とは全く別の人種と考えてはいけないことです。朝鮮半島南部の日本府 任那を足掛かりに、既に多数の倭人が当時から朝鮮には住みついており、朝鮮半島には純粋な倭人もいれば、倭人と百済人等の混血も多数いたはずで、ひとまとめに(百済系)渡来人なんて現代で呼ばれてしまう人々の多くは、日本に帰化する前から、単に朝鮮にいたというだけの日本人にすぎないのです。それなのに、日本領 任那にいた完全な日本人が日本にやってきてても、今では朝鮮半島から来た渡来人にされてしまう…… 韓国南部では古代日本特有のいくつもの前方後円墳が見つかってるし、日本に服属していた百済においても倭人系豪族が強く、王妃などには多くの倭人を迎え入れてた上、しかも百済 武寧王などは日本生まれでもあります。百済に限らず当時の古代朝鮮半島南部では倭人系豪族が大きな勢力を振るっていました。尚、支那人系もいて、ここに出てくる漢学博士 王仁(ワニ)や阿知使主(アチノオミ)等についは支那人だと記録されています。また、日本には漢字が伝わる以前から神代文字があったという、最近では何やら怪しい情報まで出回っていますが、ここではそのようなものは出所不明で後世に作られたものだということでキッパリ否定されています。

またここにもある通り、新羅の建国は神武天皇の兄(稲氷命・イナヒノミコト)がなしたという伝承も日本側にありますが(『新撰姓氏録』)、朝鮮側(『三国史記』新羅本紀)にも倭人が関わっていたことが記されていて新羅本紀では倭人と組んだ朴氏の新羅建国後、同じく倭人系の昔氏が継ぎ、後に金氏が継承していった流れになってますが、元から新羅へは支那人もかなり流入していたりで(支那側にそのような記録もあり、さらには新羅を建国したのは秦の部族だという主張まである)、日本本土の日本人とは実際かなり違う人種となっていたと見なしてます。そして金氏については倭人系との記録はなく、新羅は金氏の頃から日本人とは全く異なる今の朝鮮(韓国)人につながる民族に完全に支配され、シナ(唐)と組して日本と対立するようになったと私は確信しています。なので、今の日本人の古代史への無知を利用し、古代日朝史に通じてるフリして新羅なんかに親近感持たせようとデタラメ論ふりまいてる連中というのは、アッチ系の工作員なのです。
逆に百済については、その建国に倭人が関わったという記録はどこにもなく、百済が日本と深いつながりを持ち、日本と同化し始めたのは建国から後のことです。

それでは戦後教育で断絶された古代日本と朝鮮半島の関わり、そして任那の記憶、これらを読んでよーく思い出してくださいね。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

古朝鮮
古朝鮮の版図―殷の王族 箕子(キシ)の来王―箕子の子孫代々平壌(へいじょう)に都す―燕の人 衛満(エイマン)王となる―支那の併有(へいゆう)。


三韓
朝鮮半島南部の国々―馬韓(ばかん)―辰韓(しんかん)―弁韓(べんかん)―我が国との関係。


三国及び任那
新羅(しらぎ)―高句麗(こくり)―百済(くだら)―新羅 大伽羅(おほから・大伽耶)を侵す―大伽羅 我に保護を仰ぐ―塩乗津彦(シオノリツヒコ)の差遣(さけん)―日本府の起―任那(みまな)国名の起


神功皇后の征伐
仲哀天皇の御即位―天皇の熊襲御親征―筑紫の橿日宮(カシイノミヤ)―天皇の崩御―神功(ジングウ)皇后の新羅御征伐―武内宿禰(タケノウチノスクネ)と吉備鴨別(キビノカモワケ)―新羅王 波沙寐錦(ハサムキン)の降伏―新羅王の誓約(チカイ)―百済・高句麗の服属―内官家(うちつみやけ)の設置―皇威 海外に及び熊襲 復叛かず―皇后の御凱旋(がいせん)―応神(オウジン)天皇の降誕―皇后の摂政―神功皇后の御追号(ついごう)


学問の伝来
支那の文化 韓土に影響す―日本と韓土と往来―阿直岐(アジキ)及び博士 王仁(ワニ)百済より来る―王仁 論語及び千字文を上る―阿直岐・王仁の二人 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師となる―漢学伝来の始―支那人 阿知使主(アチノオミ)・都賀使主(ツガノオミ)父子の帰化―阿知使主・王仁等の子孫 朝廷の記録を主どる―東文氏(ヤマトノフミウヂ)と西文氏(カワチノフミウヂ)―東西文部


工芸の伝来
百済王 縫工女を貢す―支那人 弓月君(ユツキノキミ)及び努理使主(ヌリノオミ)の帰化―養蚕紡織に従事す―阿知使主 呉(くれ・ご)に使す―呉の縫女・織女来る―船工・陶工・鍛工・酒造工等 韓土より来る―我が文化の進歩を促がす。


〇箕子の来王
朝鮮の伝えに、初め壇君(ダンクン)と云う長ありて平壌に都し、国を朝鮮と号したりと云う。我が紀元前430年の頃に、支那の殷(いん)の紂王(チュウワ)の諸父(おぢ)なる箕子(キシ)本国の亡ぶるを見て、支那人五千をつれて朝鮮に入り、周より封ぜられて平壌に都す。古朝鮮の名 此に起こる。箕子の後40代をへて準(ジュン)の時に至りぬ。時に今の直隷省の河間府の以北より、遼東に至れる地を領せる燕と云う国あり。此の国に盧綰(ろくわん)なるもの王たりしが、其の内乱の起こるに及び、衛満(エイマン)なるもの、此の朝鮮に来り準を逐(お)いて王となる。
〇我が国と三韓との関係
神代に於て、既に素戔嗚尊(スサノオノミコト)の新羅の国に往き給いしこと伝えられ、出雲地方の人民には、早くより往来せしものありしなり。九州地方にても、其の豪族の彼の地にゆくものあり、韓土の人民もまた渡来せるものありて、互に交通行われしなり。我が開花天皇の御時に、支那の漢の武帝なるもの、今の遼東地方を従えて、其の威を振うに及び、九州の豪族のまた支那にも赴くものありて、漢人は当時の九州諸国を倭と呼びたり、神武天皇より崇神天皇の頃までは、韓土との交通は、専ら九州地方の豪族によりて行われ、崇神天皇の御代に大伽羅(おおから)の使節の来るにいたりしなり。
〇大伽羅の使節
大伽羅は即ち任那なり。任那は加羅・安羅(あら)等の十国をすぶるを以て、大の字をかぶらす。今の慶尚南道の金海府地方なり。当時、隣国の新羅に攻められ、崇神天皇の65年、蘇那曷叱智(ソナカシチ)を遣わして、我に朝貢せしめて救を乞いたり。
〇塩乗津彦命の差遣
第五代孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒトノミコト)の四世の孫を彦国葺命(ヒコクニフキノミコト)と云う。塩乗津彦命(シオノリツヒコノミコト)は此の彦国葺命の孫なり。崇神天皇の御代に任那奏して曰く、臣が国の東北に三巴汶(サンコモン)の地あり、地方三百里にして人民また富む。新羅と争いて彼此治むること能わず、兵戈(へいか)相つぎて人民生をたのします。将軍を遣わして治めしめば、日本の属地となるべしと。天皇 大に悦び給い、群臣に勅して遣わすべき人を奏せしめ給う。群臣 塩乗津彦の身は長五尺に達し、力衆人にすぎまた勇悍なるを以て、此人を遣わし給うべきを奏す。是に於て塩乗津彦 勅を奉じ、任那に赴きてここに鎮座す。是より子孫相つぎて彼の地に在りしかば、我が勢力永くつづきたり。
〇日本府の起
崇神天皇は、塩乗津彦を遣わして任那を援わしめ、其の地に官家(みやけ)を起きて鎮守せしめ給う。是れ任那に日本府あるの起りとす。其の管するところの地は、今の全羅南北・慶尚南北・忠清南北の六道に跨(またが)る。
〇任那国名の起
崇神天皇の御名を御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)天皇と申す。天皇の御代に任那の使来朝せんとして道に迷い、北海より出雲をへて敦賀に至りしに、天皇の崩にあい、此に留まって垂仁天皇に仕う。其の使の帰国せんとするに当り、天皇詔して曰く、汝 道に迷わずして来らば、崇神天皇に仕うを得べし、よりて御間城入彦天皇の御名をとりて汝の国名とせよとのたまい、物を賜いて本国に返さしめ給う。任那(みまな)の国名、此に起る。
〇仲哀天皇の熊襲征伐
天皇の2年、神功皇后 角鹿(つぬが敦賀)に行啓し給い、天皇南方を巡幸して紀伊の徳勒津(ところつ)の宮(紀の川口)を行宮とし給う。時に熊襲また反きて朝貢せざりしかば天皇之を討たんとし、行宮を発して穴門(あなと長門)に幸し、使を遣わして皇后を召し給う。天皇 豊浦の行宮(長門)にとどまり給い、皇后も亦至り給う。かくて8年天皇九州に幸し、橿日(かしい)宮(筑前香椎)にて熊襲討伐を議し給う。此の時 皇后は、先づ新羅を征せば、熊襲は自ら皇威に服せんことを奏し給いしが、天皇強いて熊襲を伐ち給う。翌年2月に至り、天皇 遂に軍中に崩じ給う。
〇神功皇后の新羅征伐
仲哀天皇の崩後、神功(ジングウ)皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)と議して、新羅の征伐を決し給う。皇后乃ち橿日宮を発して、松峡(まつのを)宮(筑前朝倉郡)に遷り給い、尋(つい)で層増岐野(そそきの・朝倉郡安野村)に赴き、更に山門(やまと)縣(筑後山門郡)に転じて土賊を平げ、北松浦縣(肥前)に出で、橿日浦に至り給う。此の年9月 戦船を集め、松浦湾より出帆し給いて和珥(わに)津(対馬)に着し、十月此を発して新羅に向い給う。新羅王 我が軍威を見て大に恐れ、白旗を挙げて出で降りぬ。
〇吉備鴨別
景行天皇の40年、日本武尊の蝦夷征伐に従軍せし吉備津彦命の三男なり。神功皇后の新羅を征伐せんとし給うに当り、鴨別をして熊襲を撃たしめ給う。熊襲 忽(たちまち) にして服従す。応神天皇の御代 波久岐(ハクキ未詳)の国造に任ぜらる。後世の笠田氏の祖たり。
〇新羅王の誓約
新羅王の皇軍に降るや、誓いて曰く、東より出づる日 西に出で、鴨緑江(おうりょくこう)の水 逆(さかさま)に流れ、河の石昇りて星となるにあらざれば、春秋の朝貢をかき奉らずと。是より我に貢物を上るに至る。
〇内官家
屯倉及び屯家をも、官家と同じく皆ミヤケとよむ。また国々に朝廷の御料田ありて、その御料田に成れる稲穀を蔵め置く御倉や官舎をも合せてミヤケと云う。屯倉はその御倉につきて書し、屯家・官家は其の本義なる役所につきて書す。今や韓土を征服せられたれば、皇国内の屯家になぞらへて、新羅を官家国(みやけのくに)と云い、そこに官所(やくしょ)を置き之を内官家とよびしなり。
〇摂政
天皇を輔け奉りて、すべての政を行う職なり。仲哀天皇 崩じ給い、神功皇后 新羅征伐の後、応神天皇 御幼少にまししかば、皇后摂政し給う。第三十三代 推古天皇の時、皇太子 厩戸皇子 摂政し給い、第三十七代斉明天皇の時、皇太子中大兄皇子 摂政し給う。ここに於て摂政始まる。
〇支那文化の韓土に影響
箕子の韓土に来王するや、後の高麗の地に在りしかば、支那の文物の既に伝来せしこと知らるべく、又百済より渡来せし王仁(ワニ)の論語・千字文を上りしを以て、百済にも其の巳前に伝来せしなり。新羅はもと支那の秦(しん)、漢(かん)流亡の人民の渡来せしに起りしかば、支那の文物の早くより伝わりしこと知らる。かくして韓土は、支那の文化の影響をうけしなり。
〇阿直岐と王仁
阿直岐(アジキ)は百済国王の後にして阿直史(アチノフヒト)等の祖なり。阿直岐を一に阿知吉師(アチキシ)とあり、其のシの音をキシにつづめて阿直岐と云う。応神天皇84年、百済主阿直岐をして良馬を献ぜしむ。天皇 之を阿直岐に飼わしめ給う。阿直岐よく漢文をよむを以て、天皇 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師たらしめ給う。天皇また阿直岐にききて王仁をめし給う。翌年 王仁来朝す。王仁は支那の漢の高祖の後なる鸞(ラン)に出づ。鸞の後、王狗(オウク)なるもの百済に来りて往す。王仁は王狗の孫なり。王仁来りて論語と千字文とを献ず。是に於て皇子 稚郎子の師となりて学問を授け奉る。王仁の子孫 河内に散在し、河内文首(カワチノフミノオビト)と云うもの即ち王仁の後なり。
〇漢学伝来の始
我が国の上古には未だ文字なくして、其の事実は貴賤老少口々に相伝えたりと云わる。応神天皇の御代に阿直岐来りて稚郎子皇子に学問を授け、王仁また来りて皇子の師となり論語・千字文をを上る。是れ我が国に文字ある始にして、又漢学伝来の始なりとす。因みに上古文字の有無につき論あれども、文字なしとする説よろしきが如し。神代文字として伝えられたるものの如きは、出所不明にして後世のものの作なるべし。
〇阿知使主(アチノオミ)
阿知は名にして、使主は外国の使の事を主る職名なりしが、後に併せて姓名の如くなりしと云う。此の人は支那の後漢の霊帝(レイテイ)の後なり。応神天皇の89年に、其の子 都賀(ツガ)使主と共に当類(とうるい)十七縣の民を率いて我が国に帰化せり。後106年、阿知使主父子 呉(クレ、次を見よ)に使して工女を求め帰りぬ。大和漢直氏(ヤマトノアヤノアタヒウジ)は此の阿知使主の後にして、坂上・文氏等は都賀使主(ツガノオミ)の後なり。
〇呉の国
呉とは我が国より今の支那の揚子江以南の地方を云える称なり。支那の三国の時代(皇紀881年〜920年代頃)の呉(ゴ)国の地に当りしより、其の後の南朝の時代(皇紀1100年頃〜1250年頃)までも、なお呉の文字を以て之を唱えしなり。呉をクレと云うは、我が国が東方 日出の朝(あさ)の位置に在るに対し、其の西方 日没の暮れ(くれ)の位置に当れるよりして之を呼びしならんと云う。
〇東文氏と西文氏
文氏(ふみうぢ)の文は職名にして、其の文書を掌(つかさど)るに起る。王仁来りて漢書を上り、且つ文字を習う事を掌りしより、其の子孫 文の氏を賜わりしなり。其の漢直(あやのあたい)より別れたる子孫は、大和に居たりしゆえ、之を東文氏(ヤマトノフミウヂ)と云い、王仁の子孫の河内(かわち)に居たりしゆえ、之を西文氏(カワチノフミウヂ)と云う。やがて其の東西文氏の朝廷に仕えて、文字記録などを掌れるものを東西史部(やまとかわちのふひとべ)と云う。
〇弓月君
支那の始皇帝十二世の孫を融通(ユウツウ)王と云う。我が国にて之を弓月君(ユツキノキミ)と云う。応神天皇の83年百済より来り、其の領民百二十縣、新羅に止められて加羅に在るを奏す。天皇の85年、平群木菟(ヘグリノツク)新羅を伐つに及び、漸く弓月君の人夫を率いて帰るを得たり。弓月君の子を普洞(フドウ)王と云う。秦の姓を賜わりて秦公(ハタノキミ)称し、後世 秦氏(はたうじ)の宗家となる。即ち秦氏は、此の帰化の秦人に賜へる姓にして、其の従い来りし領民を称して秦の民と云う。仁徳(ニントク)天皇の御代 之を諸郡に配置し給い、雄略(ユウリャク)天皇の御代には、此の秦の民九十二部1万8670人ありと云わる。其のこれを統(す)ぶるものを秦造(ハタノミヤツコ)と云う。
〇葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)
武内宿禰の子なり。応神天皇の5年 新羅使を遣わして調貢せしめ、先に質とせし微叱許智(ミシコチ)を伴ないて還らしむ。神功皇后 偽(いつわり)り奏請せるを覚(さと)らずして、襲津彦に護送せしめ給う。襲津彦 対馬に至りて欺かるるを知り、使者を囚(とら)えて之を殺し、新羅に赴きて其の草羅城(ツワラノサシ)を抜き、其の民を虜(とりこ)して帰る。尋(つい)で新羅貢せず、龍津彦 之を討ち、83年加羅に使して弓月君の領民を召し、新羅に留まること3年に及ぶ。平群木菟(ヘグリノツク)新羅を討ちて降すに及び、襲津彦 之と共に弓月君の領民を率いて還る。其の女 磐之媛(イワノヒメ)は仁徳天皇の皇后となりて、履中(リチュウ)・反正(ハンゼイ)・允恭(インギョウ)三天皇を生み、又其の子 葦田宿禰(アシダノスクネ)の孫女 ハエ媛(くさかんむりに夷・ハエヒメ)は、市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)に嫁して、顕宗(ケンゾウ)・仁賢(ニンケン)二天皇を生む
〇工芸の伝来
応神天皇の御代に百済王より縫衣(ぬいもの)工女・絹織(きぬおり)の職工 並に鍛冶(かぢ)醸酒(さけつくり)の技師を貢し、又新羅王よりは船匠(ふね大工)を献じ、阿知使主の如きは呉より裁縫の工女を携えて還える。かくして韓土より諸種の工芸伝来して、大に我が国の工芸の進歩を促せり。
〇努理使主
百済の貴族にして、応神天皇の御代に帰化す。子孫 養蚕・機織(はたおり)の業を世々にし、顕宗天皇の御代に絹織の物を貢ぎ献りしより、調(ツギ)の姓を賜わる。努理使主(ヌリノオミ)は調氏(しらべし)の祖なり。
〇上代日韓の関係
我が国と朝鮮とは、一葦帯水を隔てて近く相接したれば、太古より交通ありて神武天皇の皇兄 稲氷命(イナヒノミコト)は海を渡りて新羅の国王となり給いしことを伝う。かくて第十代崇神天皇の時 新羅 加羅を攻めしかば、天皇65年加羅の使者 蘇那曷叱智なるもの朝貢して救を乞う。次帝 垂仁天皇の時、塩乗津彦命なるもの命を奉じて赴き、尋で天皇 加羅の使者に勅して国号を任那と改めしめ給う。是れ任那に日本府あるの起原とす。其の後 第十四代 仲哀天皇の時、神功皇后は熊襲の屡(しばしば)叛くを以て、新羅の後媛に頼めるを思召し給い、武内宿禰と謀りて之を伐ち給いしに、新羅先づ降り、尋で百済・高麗(高句麗のこと)も亦降りて、三韓我が国に服属したり。是より漢学を始め、工芸・美術・佛教等伝来して大に我が文物の進歩を促したり。
〇神功皇后 新羅征伐及び其の効果
(前出)神功皇后の新羅征伐と新羅王の誓約と内官家と工芸伝来と学問伝来の始とを見て、前記の上代 日韓の関係の説明を見るべし。


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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蝦夷の服属 韓土の変遷(百済 高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  蘇我氏の無道

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ◆/隻霤傾

(始めから)◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  /逝紂々調陲領鳳

◆古代日本史における朝鮮半島の倭国領を歴史から取り返さなければならない! 〜 朝鮮に文化をもたらし、古代朝鮮半島南部を支配した倭人

◆古代日本が朝鮮半島を領有していた事実をもっと広めなければなりません

◆未来の歴史教科書より 〜 ルーツを守らない日本人の未来

◆竹島を武力行使で即奪回せよ! そして、まずは容易に取り返せる古代における朝鮮半島の日本府“任那”を日本史上に奪還し、日本人に再教育せよ! 〜 韓土の日本領も奪回! 朝鮮半島にある前方後円墳

◆『昔の日本はアメリカと同じくらい広かった!』〜 日本人としての自信を持たせた祖母の言葉

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
日本武尊 成務天皇

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(2017.1.24)  (戻る)
皆様、大変お待たせしておりました。戦前の歴史学習書『最新 日本歴史解釈』の続きです。 第四章になります今回は、日本最大の英雄 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が登場します。生涯かけて忠義に尽くした皇子の栄光と悲哀、その高貴な魂は永遠です。そして妃 弟橘媛(オトタチバナヒメ)も、献身的な日本女性として日本史上に燦然と輝いています。 日本人のルーツを奪い去る現代日本で教えられているデタラメ史観から、これらを知って一刻も早く脱してくださいね。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

熊襲征伐
熊襲(くまそ)の性質―九州の南部に住む―景行天皇の御親征―熊襲再び叛く―皇子小確尊(オウスノミコト・日本武尊)の御征伐―尊 時に御年十六―賊魁(ぞくかい)の川上梟帥(カワカミノタケル)誅に伏す―日本武(ヤマトタケ)の御名―熊襲の平定。


蝦夷征伐
蝦夷(えみし)の性質―東海・奥羽。越後等に住む―武内宿禰(タケノウチノスクネ)の東方視察ー日本武尊の御征伐―尊 伊勢崎神宮に参拝―叢雲剣(むらくものつるぎ)の拝受―大伴武日(オオトモノタケヒ)―日本武尊の征伐御順路 駿河土賊の焼討―草薙の剣―弟橘媛(オトタチバナヒメ)―蝦夷の服従―日本武尊の薨去(こうきょ)―熱田神宮―景行天皇の東国御巡幸―諸別(ミモロワケ)王の東国鎮撫。


成務天皇
西南東北各地方の平定―皇威益普及―成務天皇の御即位―國縣(くにかけ・国県)の分界―國造(くにのみやつこ・国造)・縣王(あがたぬし・県主)の増置―地方制度の整頓―大臣(おほおみ)の設置と武内宿禰の任官。


〇熊襲の性質
強剛にして剽悍(ひょうかん)なる種族なり。大隅・薩摩の地を本拠とせしが、神武天皇御東征の後は、其の威力を北方肥後までも及ぼしぬ。後に隼人(はやと)として知られたるもの蓋し(けだし)是なるべし。隼人とは、勇猛にして敏捷(びんしょう)なるを云う。
〇景行天皇の熊襲征伐
天皇の12年 熊襲反す。天皇、之を征せんとして周防の佐波郡に至り、先ず使を遣わして九州の状を視せしめ給う。女 酋神夏磯(カンカシ)媛なるもの、船に白旗を立てて来り帰す。乃ち其の言によりて九州北部の諸賊を平げ、豊前に行宮(今の福岡県京都郡・みやこぐんの地)を建て給う。是より大分・速見の両群をへて、行く行く賊を征して日向に入り、高屋行宮に在りて熊襲の巣窟をつかんとし給う。時に熊襲に厚鹿文(アツカヤ)迮鹿文(セカヤ)の二人のかしらありて、其の部下甚だ多し。之を八十梟帥(ヤソタケル、コチラ参照)と云う。天皇 兵を損せんことを思い給い、謀を以て梟帥の女 市乾鹿文(イチフカヤ)を誘い、遂に其の父を誅せしめ給う。是に於て襲の国、平定す。襲の国は熊襲の居住地にして大隅の噌唹(ソヲ)郡なるべし。
〇日本武尊の熊襲征伐
景行天皇27年、熊襲再び反するや、天皇 日本武尊をして之を伐たしめ給う。尊時に年十六。尊 乃ち此の年12月を以て熊襲の国に至り、其の消息と地形とを伺い給う。時に熊襲のかしらを川上梟帥という。川上梟帥たまたま親族を集めて宴をなす。尊 即ち髪をときて少女の姿になり、剣を衣中にはぎて梟帥の宴室に入り、女の中にまじり居給う。夜深く人少なくなるに及び、尊 川上梟帥の酔えるを伺いて、遂に之を刺し給う。
〇日本武尊の御名
尊の川上梟帥の胸を刺し給う時、梟帥 未だ死せずして曰く、吾は国中の強きものなり、当時、我が威力に従わざるものなし、されど尊の如き武力あるものを知らず、吾 賤しき口ながらも、御名を日本武の皇子と奉らんと。言い終るや、尊 胸を刺して之を誅し給う。是より日本武尊と称し奉るに至りしなり。
〇蝦夷の性質
蝦夷は、今の北海道に住めるアイヌと同じ種族にして、頗(すこぶ)る勇悍なりき。景行天皇の御代の頃には、奥羽地方より常陸にまでもひろがりて、其の勢力甚だ熾(さかん)なり。天皇 日本武尊に征伐せしめ給いし時にのたまうて曰く、東夷の性質暴にして村に長なく邑に首なし。各疆(さかい)を争いて互いに盗略す、東夷の中にて蝦夷最も強し男女交わり居て父子に別なし、冬は穴に宿し夏は樔(やぐら)にすむ。毛を着て血を飲み山を登り野を走ること飛ぶ鳥や走る獣の如し、箭(や)を頭髪にさして刀を衣中にはぎ、或は黨(なかま)を聚(あつ)めて辺界を犯し、或は農業を伺いて人民を殺す。撃てば草にかくれ、追えば山に入る。身体長大にして力強く、猛きこと雷電の如く、向う所前なしと。之によりて、当時の蝦夷の状を知るべし。 
〇武内宿禰 東方観察
景行天皇の25年、孝元天皇の後なる武内宿禰をして、北陸及び東方の国々の形勢と人民の有様とを観察せしめ給う。27年、武内宿禰 東国より還り、東夷の中に日高見国(次に見ゆ)あり国人勇悍にして男女ともに髪を結び、身に入墨(いれずみ)す、是を蝦夷と云う、土地肥えて広し、之を征服し給うべしと奏上す。
〇大伴武日
天忍日命(アメノオシヒノミコト、コチラ参照)の後にして、道臣命(ミチノオミノミコト、コチラ参照)七世の孫なり。日本武尊の東夷征伐に当たり、天皇 武日をして尊に従わしめ給う。此の動功によりて、讃岐の地を賜りて私宅となさしめ給う。武日の子 武以(タケモチ)は、仲哀天皇の御代、始めて大臣(おほおみ)となる。
〇日本武尊の蝦夷征伐
景行天皇の40年、蝦夷反きて人民を苦しむ。天皇群臣に詔して、之が征伐将たるべきものを問わせ給う。日本武尊は御兄 大碓尊(オオウスノミコト)を推し給いしが、大碓尊 懼(おそ)れて之を辞し給いしかば、日本武尊をして平定せしめ給う。日本武尊乃ち大和を発して伊勢に至り、皇大(こうたい)神宮を拝して倭姫命(ヤマトヒメノミコト)にあい給う。かくて尊は命より叢雲剣を授かり、駿河に至り給いし時、土賊 尊を殺さんとし、狩に誘いて其の野を焼く。尊 欺かるゝを知り給い、燧(ひうち)にて火を出し、叢雲剣にて草を薙(な)ぎ、(草薙剣と改名)之を焼きて免るゝことを得、却て其の賊を滅し給う。焼津の名 此に起こる。尊 相模より進んで走水(はしりみず)に至り、東京湾を渡りて上総(かずさ)に上陸し給う。尊 上総より陸奥(むつ)の国に入りて、蝦夷を平げ給う。尊の帰路は、日高見国(或は常陸の北辺とし或は陸前桃生郡附近とす)を発し、西南常陸・武蔵を経て、甲斐に入りて酒折(さかおり)宮に居給う。かくて大伴武日を信濃及北陸に遣わし、自ら転(てん)じて碓水(うすい)峠を越えて信濃に入り、美濃より尾張に出で、更に近江の賊を討ち、遂に伊勢に還りて薨じ給う。時年三十。
〇弟橘媛
日本武尊の妃なり。尊の蝦夷征伐に従いしが、尊 東京湾を渡りて上総に上陸せんとし給う時、たまたま海上暴風起こり、尊の船ただよいて渡り難し、弟橘媛 尊に申して曰く、風起こり浪荒くして尊の船、将に沈まんとす、妃の身を以て尊の命に代わらんと。言い終りて浪の中に投じ給う。是に於て暴風たちまち止み、船 上総の沿岸につくを得たり。よりて時人 其の海を走水と云う。
〇日本武尊の薨去
尊の帰路 尾張に至り給うや、国造 尾張氏により給う。時に近江の膽吹(伊吹・いぶき)山に賊あると聞き、草薙剣を尾張氏の家に置きて、此の賊を平げ給う。尊たまたま疾(やまい)を獲給いしを以て、尾張氏の家に入らずして伊勢の能褒野(のぼの)に至りしに、疾甚だしくして其の俘(とりこ)にせる蝦夷を神宮に奉り、吉備津彦(きびつひこ)をして東夷平定を奏上せしめ、遂に此に薨じ給う。
〇熱田神宮
三種の神器の一なる草薙剣を祀れる宮にして、名古屋市の熱田に在り。日本武尊 蝦夷征伐の時、此の剣を帯給いしが、其の帰路、尾張の國造 尾張氏の家に滞在し給い、近江の膽吹山の賊を討たんとし、此の剣をとどめて向い給う。かくて尊 疾を獲て、遂に能褒野に薨じ給いしかば、神剣は尾張にとどまり、後 此の地に祀り奉る。天智天皇の御代、しばらく禁中に在りしが、天武天皇の御代、また熱田に返し奉らる。
〇御諸別王の東国鎮撫
景行天皇の53年、天皇 日本武尊の平げし国々を巡視せんとし先づ伊勢に幸し、転じて東海に入り、上総より海路 安房に渡りて還幸し給う。55年、豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の孫 彦狭島王(ヒコサシマオウ)を東山道十五国の都督とし給いしが、任所に至らずして薨す。翌年、更に王の子 御諸別王に詔して東国を鎮撫せしめ給う。
〇国造・縣主の増置
神武天皇 大和平定の後、始めて國(国)造・縣(県)主(コチラ参照)を置き給いしが、第十四代成務天皇の御代に至り、大に郡国の境を正し、大国小国の國造を定め、大県小県の縣主を置き以て中央政府の藩屏(はんぺい)とし給う。当時の國造は凡そ144ありと云う。職掌は、各土地を領して、其の人民を治め、神祇を祭り田賦(でんぷ)を貢するに在り。而して其の子孫 之を世襲す。
〇大臣の始
大臣はオホイマチキミとよみ、後の大臣(おほおみ)なり。大臣は臣姓の諸氏をすべ、大連(おほむらじ)と共に天下の庶政をすぶるを職とす。而して其の大臣は、実に成務天皇の御代に、武内宿禰の大臣(おほいまちきみ)となりしに起こり、其の子孫 之を世襲したり。
〇皇大神宮と熱田神宮との由来
両神宮の由来は、八咫の鏡と叢雲剣との奉遷(コチラ参照)と前項 熱田神宮とを見るべし。


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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より А…鮮半島の変遷。韓土の形勢 任那 日本府の滅亡 

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆戦前は逆賊歴史学として処罰されてた、左翼学者による皇統否定の「縄文・弥生」時代の敗戦後の普及 〜 汚染される皇室。救う手だては皇室奪回

◆日本神話の絵本について 〜 子供たちに日本と天皇へ愛着を持たせましょう

◆日本神話が題材のスペクタクル巨編 映画 『 日本誕生 』について

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◆イザナギとイザナミに見る、日本における男女のあり方 〜 日本神話を題材に

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
崇神天皇と垂仁天皇

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(2016.11.10)  (戻る)
『最新 日本歴史解釈』第三章、今回は神武天皇から十代目に当たる、四道将軍らによる諸国鎮撫で皇威を拡張した崇神天皇、そして殉死を禁ずる発令が至った経緯など、とっても生々しく興味深いエピソードもある十一代目 垂仁天皇の治世のお話。
尚、建国した神武帝以後の開花天皇の代までの8代分の記録がまるで残っていないのですが、これは孝徳天皇の元年、(大化の改新で)息子 蘇我入鹿を殺され追いつめられた蘇我蝦夷が大邸宅に火を放ち、当時は存していた正史たる『天皇記』や『国記』のような典籍が焼けてしまったからなんですね。完全焼失する前、焼け残っていた『国記』の一部を船恵尺(ふねのえさか)がすばやく取り出し、中大兄皇子に奉納します。その後、歴史記録保存の必要性を感じた天武天皇が群臣に勅し、それら焼け残っていた史書と他にあった『帝紀』等の史書を付け合わさせ、驚異的な記憶力でそれら典籍を誦習した稗田阿礼の誦を元に、太安万侶によって編纂された古事記が普及していったわけです。その二人の当時の思い起こされるご様子、何と美しい音の響き、神々しいお姿なのでしょう。だから今の歴史学者が言うような、記録の残っていないこの期間の天皇史なんて嘘っぱちだなんて言い分こそ、テキトー論のデタラメなのです。神武天皇以後、開花天皇までの歴史は確実に存在します。記録のある部分は正確に残し、わからない部分を勝手に作ることが出来なかったからこそ、その間が空白になってしまったのです。

榊 〜 古代歌謡の世界 より
古代日本、稗田阿礼の謡はどのように奏でられていたのか、思いを馳せてみましょう。この曲は『日本古代歌謡の世界』(東京楽所)というCDからです(詳しくは右画像クリック)。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

神器の奉還
神武天皇の後、御八代の政治―崇神(スジン)天皇の御即位―崇神天皇の御敬神―八咫鏡(やたのかがみ)と叢雲劔(むらくものつるぎ)との奉遷(ほうせん)―笠縫(かさぬい)の邑(むら)―皇女 豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命の奉仕―模造の鏡劔と八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)との安置―御歴代の御伝承―神宮・皇居の別。


四道将軍の派遣
皇族を四方に派遣―大彦命(オオヒコノミコト)は北陸―武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)は東海―吉備津彦命(キビツヒコノミコト)は西道―丹波道主命(タニハノミチノヌシノミコト)は丹波(タニハ)―四道将軍の称―将軍各地の人民を撫(ぶ)し朝命に従わざる者を討つ―皇子 豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の東国を鎮撫(ちんぶ)―皇威の拡張。


農事の奨励
崇神天皇の民業御注意―池溝の開鑿(かいさく)―造船―人口の調査―調物(みつぎ)の賦課(ふか)―弓弭(ゆはず)の調と手末(たなすえ)の調(課税の始)―家富み物足る―はつくにしらす天皇


農事の奨励
垂仁(スイニン)天皇の御即位―天皇民事に御注意―池溝の開鑿(かいさく)800余所―田地の開拓―産業益興る。

皇大神宮
垂仁天皇の御敬神―八咫鏡と叢雲劔とを五十鈴川上に奉祀―皇女 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の奉仕―御鏡は天照大神の御霊代(みたましろ)―内宮(皇大神宮)。


殉死の禁
日葉酢媛(ヒハスヒメ)皇后の御葬―殉死の禁―野見宿禰(ノミノスクネ)の建議―土偶を殉死に代う―埴輪(はにわ)と古墳―上古の風俗。


〇神武天皇後の御八代
第一代神武天皇の後、綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝昭(こうしょう)・孝安(こうあん)・孝霊(こうれい)・孝元(こうげん)・開化(かいか)の御八代を経て、第九代崇神天皇の御即位に至る迄、凡そ560余年(日本書記による)の年月を数う。而(しか)して此の間、天皇の御年、皇后・皇子女の御名、皇都・山陵の名、即位・崩御等の年月日を伝うるの外なれば、歴史事情を知るに由なし。恐らくは此の御八代の間の事実はこれ伝を失えるものなるべし。
〇崇神天皇の御敬神
上古の政治は神祇(じんぎ)を祭るを以て重なるものとす。天皇聴敏(ていびん)にましまし長じて心を政治に用い給い、重く神祇(ジンギ)を崇め給う。即位の5年疫病流行し、為に死するもの多くして人民流浪し背くものさえあるに至る。天皇乃(すなわ)ち罪を神祇(ジンギ)に請い給い、皇女 豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)をして天照大神を倭の笠縫(大和磯城郡織田村〈やまとしきぐんおだむら〉)に祭らしめ、翌年 大田田根子(おおただねこ)をして大物主の神(大国主命のこと)を祭らしめ、且(かつ)八十萬神(やおよろずのかみ)を祭り、天社・国社及び神地(神領)神戸(神領の民戸)をも定め給う。是れに於いて疫病始めてやみ、国内よく治まり、五穀成りて人々富むに至る。
〇八咫鏡と叢雲劔との奉遷
古来三種の神器は、常に宮殿に泰安せらる。崇神天皇は其の殿を同じくせるは、神の威を瀆(けが)さんことを畏れ給い、齋部氏(いんべうじ)をして新に鏡・劔を鋳造せしめ、天皇御守護の御璽(みしるし)とし、三種の神器中の八咫鏡と叢雲劔とは、笠縫の邑(むら)に移し、皇女 トヨスキイリビメノミコトを命をして祭らしめ給う。次の垂仁天皇もまた敬神の御心深くましまし、更に笠縫の邑(むら)より、神鏡・神劔を伊勢の五十鈴川上に遷し、皇女 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をして祭らしめ給う、是れ内宮なり。
〇四道将軍と其の派遣
崇神天皇は其の十年に民を導くは教化に在り、使を四方に遣わして朕が規則を知らしめんと詔し給い、大彦命(オオビコノミコト)を北陸に、武渟川別命(タケナカワワケノミコト)を東海に、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)を西道(山陽道)に、丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)を丹波(山陰道)に遣わし、教を受けざるものを伐たしめ給い、共に印綬(いんじゅ)を授けて将軍とし給う。これを四道将軍という。かくて大彦命(オオビコノミコト)と武渟川別命(タケナカワワケノミコト)とは、会津に至りて相会(あいあ)したり。翌11年四道将軍各帰りて不服のものを平定せし状を奏上せり。
〇豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)
命は崇神天皇の皇長子なり。天皇の48年第三皇子 活目尊(イタメノミコト)を立てて皇太子(垂仁天皇)とし、トヨキイリヒコノ命をして東国を治めしめ給う。是れより命の子孫、東国を鎮撫し給うに至る。上毛野(カミツケノ)下毛野(シモツケノ)両氏は此の命の後裔(こうえい)なり。
〇池溝の開鑿(かいさく)
崇神天皇は其の62年に、農は天下の大本にして人民の恃みて生活する所なりと詔し給い、河内の狭山の地、水少なくして人民農事を怠るを憂い給い、多く池溝を開き、尋で依綱池(ヨサミの池・摂津東成郡)苅坂池(カリサカの池・所在未詳)反折池(サカオリの池・所在未詳)を作り給う。垂仁天皇また農事に心を用い給い、其の35年に高石池(タカシの池和泉泉北郡)茅渟池(チヌの池・和泉泉南郡)を作り、尋で狭城池(サキの池・大和生駒郡)迹見(トミの池・大和磯城郡)を作らしめ、諸国に800余の池溝を開かしめ給う。
〇課税の始
崇神天皇の12年始めて人口を調査し、男には弓弭(ゆはず)の調とて、狩猟の獲物に課し、女には手末(たなすえ)の調とて、手業を課せらる。是れ実に課税の書に見えたる始とす。
〇造船の始
崇神天皇の17年、船を天下の要用なるも、海辺の民船なくして渡るに苦しむこと甚だしと詔し給い、諸国に命じて船を造らしめ給う。諸国に造船を命ぜられし始なりとす。
〇はつくにしらす天皇
神武天皇を始馭天下之(ハツクニシラス)天皇と称し奉り、崇神天皇も亦(また)御肇国(ハツクニシラス)天皇と称し奉る。此の意義は、未だ服せざりし遠き国々までも、始めて皇化にゆきたらはして、天下悉(ことごと)く太平となりし御代を称し奉るにあり。蓋(けだ)し神武天皇は、大和地方を平定し給いて人民を安んじ給い、崇神天皇も四道将軍を遠方に派遣し、不服のものを平定して皇威を輝かし給い、ヤマト朝廷は漸次盛となりしより、かく称し奉るに至りしなるべし。
〇殉死の禁
垂仁天皇の28年、同母弟 倭彦命(ヤマトヒコミコト)薨(こう)じ給う。其の葬むるの日に当たり、近習(そばのもの)のものを集め、悉(ことごと)く生ながらに陵域(陵のまわり)に埋め立つ。埋められしもの数日死せずして昼夜泣きよぶ。其の死するや屍くさり大鳥聚(あつま)りてこれを食う。天皇其の泣きよぶの聲を聞きて大に痛み給い、古風といえども今より止めんとのたまいてこれを禁じ給う。
〇野見宿禰(ノミノスクネ)と埴輪
垂仁天皇の32年、皇后 日葉酢媛命(ヒハスヒメノミコト)薨(こう)じ給い、将にこれを葬らんとす。天皇殉死の不可を知り給いしも、此の度の埋葬に当たりては、如何せんと憂いてこれを群臣に問わせ給う。出雲に野見宿禰(ノミノスクネ)あり、かつて勇悍なる当麻蹴速(タギマノクエハヤ)と力をくらべ、これに勝ちて賞せらる。此の時 ノミノスクネ、陵墓に生人を埋め立つるは、良にあらずして後世に伝うべからず、更に便事を奏し上らんとて、使を出雲に遣わして其の土部(ハシベ)百人を召し、自らこれをとくし、埴(はに)を取りて人馬及び種々の物の形を作り、これを天皇に上る。天皇 大に喜ばせ給い、是れより土物を陵墓に立てて生人を埋むるに代ることを後世の規則とし給う。やがて其の土物を以て、始めて皇后 ヒハスヒメノミコトの墓に立て給う。ノミノスクネ厚く賞せられ、姓を土部臣(ハシベノオミ)と改めらる、是れよりノミノスクネの子孫は、常に天皇の御葬式にあづかるに至る。
〇上古の風俗
上古に於いてはすこぶる祭祀を重んじ、其の敬神の俗は自ら忠孝の念と尚武(しょうぶ)の風と盛にす。面して人々 上衣を筒袖にし、これに褌・裳(も)をつけ、腰に刀劔を帯び、頭にくしかづら、頸に頸珠(くびたま)、手に手纏(たまき)をなすもあり。其の衣服の材料は、麻布・楮布(こうぞふ)などを用いること多し。また男は髪をみづらに結び、女はこれを後にたれ、或は髷(まげ)にも結ぶ。家屋は木造して、地を掘りて柱を立て、茅にて屋根をふき葛にて結びたり。
〇崇神天皇の事蹟
天皇の実蹟は、前に記したる天皇の敬神、八咫鏡と叢雲劔との奉遷、四道将軍の派遣、豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の差遣、池溝の開鑿(かいさく)、課税の始・造船の始 等の外に、天皇の御代に任那(みまな)の蘇那曷叱知(ソナカシチ)来りて鎮将を請い、塩乗津彦(シオノリツヒコ)の渡韓することとなり、又神武天皇の大業を更に拡張し給いしを以て、世人(せじん) 天皇を御肇国(ハツクニシラス)天皇 と称へ奉りしこと等なり。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 日本武尊 成務天皇

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

◆大日本帝国の唱歌を歌い継ごう! А10月17日は神嘗祭 〜 唱歌『神嘗祭』を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆忠臣の象徴 楠木正成公を称える唱歌『青葉茂れる桜井の』(櫻井の訣別)を10歳の子供にピアノ弾き語りで歌ってもらいました!

◆そもそも革命とは 〜 フランス革命に見る民衆とマスコミの狂気

◆今のまま側室を設けると、皇室崩壊を招きそう 〜 三船敏郎の愛人 喜多川美佳と、その娘 三船美佳に見てみよう

◆失われた日本人の精神性と天皇の祈り 〜 信仰とは信条を持つこと。神を信じる否かは関係ない 〜 母と子が父の無事を祈る『里の秋』

◆反日左翼 民主党共産政権なら2千万人虐殺! 〜 天皇処刑!

◆『 耳なし芳一 』 安徳天皇の短い生涯にむせび泣く平家の亡霊 〜 ドラマ『日本の面影』よりァ塀)
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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
神武天皇

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(2016.10.20)  (始めから)
『最新 日本歴史解釈』第二章、今回は神武帝が日向を出発しての東征による長髄彦(ナガスネヒコ)らとの戦いから大和までの平定、(かしはら)橿原宮の造営と神武天皇 即位の大礼(日本建国)や國造・縣主の地方官任命等までになります。
同じ妻木さん作成の学習年表、及び神武天皇の即位式の映像もコチラに掲載してますので、ご参照くださいませ。

『最新 日本歴史解釈 』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

天皇の御東征
神武(ジンム)天皇は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御曾孫−天皇初め日向に居給ふ―東方諸國の酋長(しゅうちょう)―各割拠して互に争う―東方平定の御計策―皇兄 彦五瀬命(イツセノミコト)と謀議―皇兄及び皇子と共に東征―御東征の順路―高島宮(タカシマノミヤ)―皇軍の浪速(ナニワ)到着。


大和地方の平定
登美(トミ)の長髄彦(ナガスネヒコ)―国見(クニミ)の八十梟師(ヤソタケル)― 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)―ナガスネヒコ ニギハヤヒノミコトを奉じて皇軍を防ぐ― イツセノミコトの負傷―皇軍、路を転じて大和に向かう―道臣命(ミチノオミノミコト)・大久米命(オオクメノミコト)の嚮導(きょうどう)―金鵄勲章の由来―ヤソタケル・土蜘蛛(ツチグモ)等の土賊―ナガスネヒコの誅―土賊の服従―大和地方の平定。


御即位の大禮(たいれい)
畝傍山(ウネビヤマ)の東南、橿原(カシハラ)に奠都(てんと)―橿原の神宮―御即位の大禮―五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の御冊立―紀元元年と紀元節―論功行賞―祭政一致(さいせいいっち)―中央政府の組織―天種子命(アメノタネコノミコト)・天富命(アメノトミノミコト)・可美眞手命(ウマシマデノミコト)―國造(クニノミヤツコ)・縣主(アガタヌシ)等の地方官―皇祖天神を鳥見山(トミノヤマ)に祭る。

 

〇東方諸国の状
天孫既に降臨し給いし後、御子孫代々西辺に居給いしを以て、東方の遠き地は未だ皇澤(こうたく)にうるおわず、村々に長ありて各疆(サカイ)を分かち、これに拠りて互に相争い、人民為に業に安んぜざりき。天皇かつて此の東方にて政治をなすに美しき地あるを聞き給いしかば、此の苦しめる人民を安んぜんとし、皇兄・皇子どもとはかりて東方平定のことを決し給う。
〇神武天皇御東征順路
皇軍日向を出でて豊予海峡をすぎ、豊前の宇佐及び筑前の遠賀川口をへて安芸の埃(エ)の宮(所在未詳)に至り、翌年備前の高島の宮(備前見島湾口高島か)に出る。天皇此の宮に居給うこと三年、其の間に戦船をそろえ兵食をそなえ、将に一挙に東方を平らげんとし給う。かくて皇軍は海上より進みて難波埼(大阪市の南方より大阪城辺に至れる高地の古称なり)に至る。此の沿岸の潮流はやきを以て、此の國を浪速(ナミハヤ)と名づけらる。今の大阪地方なり。此の浪速(ナミハヤ)をなまりて難波(ナンバ)と云い、又浪速を一に浪華(ナニワ)とも書するに至る。次いで皇軍浪速より東方生駒(イコマ)山をこえて、大和に入らんとせし時、大和の登美(生駒郡富緒村)のナガスネヒコこれを孔舎衛坂(くさえざか)(クサカ河内中河内郡)に逆へ撃ち、皇軍利あらず。皇兄 イツセノミコト負傷し給う。天皇軍を返し更に紀伊に至り給いし時、命軍中に薨(こう)じ給う。皇軍やがて熊野(紀伊)に至りしに、山中行くべき道なし。天忍日命(あめのおしひのみこと)(コチラ参照)の曾孫 道臣命や、八咫烏の嚮導(きょうどう)によりて、わづかに大和の吉野川筋に出て、宇佗郡より西に向かいて大和の平野に出づること得たり。
〇長髄彦(ナガスネヒコ)
ナガスネヒコは登美の酋長なり。皇軍の来るを聞き、其の君とせる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を奉じてこれを逆へうつ。其の後、皇軍しきりに勝ち、ニギハヤヒノミコトまた大儀を覚りて皇軍に降らんとせしが、ナガスネヒコの性剛愎(ごうふく)にして物を解せず、ミコト即ちナガスネヒコを誅して帰順す。
〇国見の八十梟師(ヤソタケル)
八十梟師(ヤソタケル)は八十建とも書す。其の八十は数多きの意にて、師は威勢ありて猛勇のものを云う。其の国見岳(大和)に在るを国見のヤソタケルと云い、磯城(シキ大和)に在るを磯城のヤソタケルと云い、又熊襲(九州)に在るを熊襲八十梟師(クマソヤソタケル)と呼ぶが如し。
〇饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
ミコトは天神(天つ神)の子にして、早く天上より降れるものなり。ナガスネヒコに推され其の妹を娶りて可美真手命(ウマシマデノミコト)を生む。皇軍来るに及び、ナガスネヒコ 天神の子に両種なしとしてこれに抗し奉る。天皇すなわち天神の証を示し給いしも、ナガスネヒコなお剛腹(ごうふく)にして改むること能(あた)わず。ニギハヤヒノミコトよりてこれを誅し、其の衆と共に帰順す。天皇其の忠を賞してこれを用い給う。天皇 ウマシマデノミコトをして物部(武士)を統べしめ給い、子孫世々相ついで仕え奉る。物部氏の祖是れなり。
〇道臣命(ミチノオミノミコト)
初め日臣命(ヒノオミノミコト)と称す。天皇御東征の際、熊野の山路すこぶる険悪にして皇軍進むこと能(あた)わず。此の時ヒノオミノミコト其の部下を率いて路を啓(ひ)らき、八咫烏(ヤタガラス)の向かう所にまかせて進み宇陀(大和)に至ることを得たり。天皇其の忠勇を賞して、名を道臣(ミチノオミ)と改めしめ給う。かくて賊 兄猾(エウカシ)を討ち給うや、ミチノオミノミコトをして其の状を察せしめ、又大宴を設けて国見岳の余薫(よくん)を誘わしめ給う。天皇即位の翌年功を賞し給うに当たり、ミチノオミノミコトに宅を賜りて寵遇(ちょうぐう)し給い、又其の部兵をして畝傍山(ウネビヤマ)の附近に居らしめ給う。大伴氏の祖は此のミチノオミノミコトなり。
〇金鵄勲章(きんしくんしょう)の由来
皇軍既に国見岳のヤソタケル及び賊兄磯城等を滅し遂にナガスネヒコに逼(せま)りしも、未だ勝つこと能(あた)わず、怱(たちま)ち天曇りて雨降り、金色の鵄(とび)飛び来たりて天皇の弓弭(ゆみはず)に止まる。是れより皇軍大いに振るい、ナガスネヒコまた戦うこと能(あた)わず、遂にニギハヤヒノミコトによりて誅に伏しぬ。此の金鵄(きんし)の瑞(しるし)は、即ち今日の金鵄勲章の由来なり。明治23年の紀元節に下し給える詔(みことのり)の中に「天皇戡定(かんてい)の故事に徴し金鵄勲章を創設し将来武功抜群の者に授興し云々」と見え、其の故事とのたまえるは神武天皇 大和戡定(かんてい)の時に霊鵄の瑞(しるし)ありしことと推し奉らるるなり。
〇土蜘蛛(ツチグモ)
土ごもりの約にて上古(じょうこ)に穴居(けつきょ)の夷族の猛く暴くして人を害(そこな)うものの称とも云い、又高尾張(大和)に在りし土蜘蛛が、身体短くして手足長く、あたかも短人に似たりと伝えられたれば、其の人種の形の蜘蛛に似たるものの名とし、他もこれになぞえて呼びしとも云う。
〇橿原神宮(かしはらじんぐう)
宮址(きゅうし)は、神武天皇の大和地方を平定し給いて後、宮殿を経営せしめ給いし地にして、今の大和高市郡畝傍山の東南に在り。明治22年、此の宮址を調査してここに橿原神宮を建て、神武天皇を奉祀(ほうし)す。社殿は京都御所の温明殿(うんめいでん)及び神嘉殿(しんかでん)を移して営みしなり。神宮は明治23年3月20日官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列せらる。
〇五十鈴媛皇后(イスズヒメコウゴウ)の冊立(さくりつ)
天皇既に即位の大禮(たいれい)を橿原宮に行わせ給い、貴族をえらびて皇后とせんとし給い、此れにイスズヒメノミコトを皇后に冊立し給う。皇后の父は大国主命の子 事代主命(コトシロヌシノミコト)にしてスサノオノミコトの孫に当らせらる。
〇紀元元年と紀元節
神武天皇即位の大禮(たいれい)を行わせ給いしは、辛酉(しんゆう)の年の正月朔日(さくじつ)にして、大正6年を去る実に2577年の昔に在り。正月朔日を太陽歴に換算して正に2月11日に当たる。明治5年11月、此の即位の年を以て我が紀元元年と定められ、翌年1月更に即位日を祝日とし、尋(つい)で此の日を紀元節と名付けらる。
〇論功行賞(ろんこうこうしょう)
神武天皇即位の二年 群臣の功を定め賞を行い給う。ミチノオミノミコトは宅地を賜わりて殊に寵せられ、珍彦(ウヅヒコ)を倭國造(やまとのくにのみやつこ)に、劔根(ツルギネ)を葛城國造(かつらぎのくにのみやつこ)に、又 弟猾(オトウカシ)を猛田の縣主(アガタヌシ)に、弟磯城(オトシキ)を磯城の縣主に各任じ給い、又ヤタガラスも嚮導(きょうどう)の功を以て賞せらる。
〇祭政一致
上古に於ける政治は、其の天神地紙(てんじんちぎ)を祭るを以て重なるものとす。故に古来 祭(まつり)と政(まつり)とは一致なりとの称あるなり。
〇中央政府の組織
当時の朝官は世襲にして、中央政府の組織もすこぶる簡易(かんい)なり。即ち天種子命(アメノタネコノミコト)は、天富命(アメノトミノミコト)と共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し、又ミチノオミノミコトは、オオクメノミコトと共に各部下の将士を率いて宮門を護衛し、ウマシマデノミコトは、其の部下の将士を率いて殿内に宿衛せり。
〇天種子命(アメノタネコノミコト)
ミコトは天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫なり。神武天皇の中国平定に仕え、天皇平定の後に鳥見(とりみ)の山中に皇祖天神を祭り給う時にこれを輔け奉り、又アメノトミノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を佐(たす)け奉る。
〇天富命(アメノトミノミコト)
ミコトは太玉命(フトタマノミコト)の孫なり。山材を採りて皇孫の為に宮殿を作り、齋部(いんべ)の諸氏を率いて種々の賽鏡及び木綿・麻等を作らしめ、又アメノタネコノミコトと共に祭祀を主(つかさど)りて朝政を輔佐し奉る。
〇大久米命(オオクメノミコト)
久米氏は其の祖 高皇霊尊(タカムスビノミコト)に出づ。神武天皇御東征の時、オオクメノミコトはミチノオミノミコトと共に軍に従いて功あり。平定の後もミチノオミノミコトと共に各部下と率いて、宮門を警衛し奉る。
〇國造・縣主(クニノミヤツコ・アガタヌシ)
國(国)造・縣(県)主は中央政府の朝官に対し、地方官の名称なり。其の國造の造は御臣の義にして、國造の治むる区域は、略後世の郡に同じ、又縣主の県は、朝廷の御耕田を云い、また田舎をも云う。縣主は其の県(後の郡位のもの)を治むる長官にして、当時は畿内の御耕田を掌(つかさど)るものを云う。要するに國造・縣主は、皆世襲の職にして、其の職掌(しょくしょう)は土地を領して人民を治め、神紙(じんぎ)を奉りて田賊を貢するにあり。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 崇神天皇と垂仁天皇

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(始めから)◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  /逝紂々調陲領鳳

◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より ぁ‘本武尊 成務天皇

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より はしがき・もくじ

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より
神代 皇基の遼遠

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(2016.10.15)
妻木さんの『最新 日本歴史解釈』第一章は、イザナギ神とイザナミ神の国産みから、天照大神の御孫 ニニギノミコトの天孫降臨までです。神武天皇による建国がなされる前までの、戦前は“神代”(かみよ・じんだい)と呼ばれていた時期。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


【目次はコチラ】

我が国体
上に万世一系の天皇上に万世一系の天皇君臨し給う―下に忠良なる臣民あり― 世界無比の尊き国―建国の基極めて遠し―国運益栄ゆ―外国の侮を受けず。


天照大神(アマテラスオオミカミ)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)―大八島洲国成る― 天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノウノミコト)―天照大神の御徳― 高天原(タカマガハラ)―大神は皇室の御先祖。


素戔嗚尊(スサノオノミコト)
スサノオノミコトは天照大神の御弟―勇敢にして暴行多し―ミコト出雲に逐はる― ミコトの出雲地方の征服―叢雲剣(ムラクモノツルギ)を得て大神に献ず―ミコトの韓土往来(朝鮮半島)。


大国主命(オオクニヌシノミコト)
オオクニヌシノミコトはスサノオノミコトの御子―命少彦名命(スクナコヒナノミコト)と出雲地方の経営―医療のみちを教える―禁厭(マジナい)の法を授く―遠近みなその徳化に服す―大神の御使―經津主(フツヌシ)・武甕槌(タケミカヅチノ)の二神―ミコト国土を上る―ミコト杵築宮(キヅキノミヤ)に退居(出雲大社)。


皇基の遼遠
天照大神の御子 天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)―アマノオシホミミノミコトの御子 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)―大神の詔―三種の神器―皇室の御基定まる― 三種の神器は皇位の御璽(ミシルシ)。


天孫の降臨
天孫ニニギノミコト大神の大詔を奉じ給う―天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・天忍日命(アメノオシヒノミコト)、太玉命(フトタマノミコト)等の供奉―天孫日向国に降臨―笠狭崎(カササノミサキ)―日向の御三世―ニニギノミコトの御孫 鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の御子 五瀬命(イツセノミコト)・磐余彦尊(イワレヒコノミコト)等―イワレヒコノミコトはすなわち神武天皇。


〇大八洲国
古の伝えにイザナギノミコト・イザナミノミコト始めて磤馭慮島(オノコロシマ)すなわち淡路の小島に降りて大八洲 国を成し給うと云う。その大八洲とは淡路・伊予 (二名洲) ・筑紫 (九州) ・壱岐・対馬・隠岐・佐渡・大倭(豊秋津島洲すなわち本州) の八国にして、すなわち我が国を云う。或は云う、大八洲は大弥島(おほやしま)のわけにて、我が国が無数の島々より成れるによると。
〇天照大神の御徳
大神は一に大日孁貴(オホヒルメノムチ)尊と申す。その御徳の高大なることは、あたかも太陽の天に在りて光り輝きの麗しく天地四方を照らし徹すが如くにまします。よりてその御徳の高大なるをただへ奉りて天照大神ともオホヒルメノムチノミコトとも申す。
〇高天原
天祖の治め給いし高天原の所在につきて、或は天上とし、或は常陸とし、或は伊勢とするなど種々の説あれども未だ定まりたる説なし。研究の進むに従いてその所在の明らかなる時代もまたあるべし。
〇スサノオノミコトの暴行
スサノオは進む鳴は男にて、ミコトの御性質は烈しく猛く速きによりてかく申す。さて天照大神の田に稲種をまき給うに当たり、ミコトは之を重ねまきをなし、或は畔を毀ちてその水を涸らし、又大神の新穀を饗し給う祭の場や、神衣を織り給う室をけがし給うなどの暴行あり。大神、大いに之を怒りて石窟(いわや)にかくれ、戸を閉じて出で給わす。群神乃ち相はかりて鏡を賢木(さかき)にかけ玉を飾りて石窟の前に立て、かつ舞や樂を奏しなどして、遂に迎え奉る。かくてミコトはおいやらて給う。
〇スサノオノミコトの韓土往来
初めミコトの生まれ給うや、御父はミコトの性質の荒々しきを以て、海原すなわち韓国を治めしめんとし給いしが、その暴行あるに及びておいやられ給う。ミコト即ち途中出雲に至りて兇徒(ワルモノ)を平らげ、出雲の須賀(スガ大原郡御室山)の地を治め、オオクニヌシノミコトを生み、遂に韓国に往き給う。
〇少彦名命(スクナヒコナノミコト)
命は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の子なり。大国主命が出雲地方を平定するに当たり、少彦名命は海外より至りて大国主命を助け、力を合わせて諸国を経営し、人民の為に病を治むるの術を起こし、又蟲鳥獣などの害をはらいのぞく法を始めしが、後に出雲の熊野の崎(八束郡)より発して常世(トコヨ)の国に渡りぬ。常世国の常世は遠く遼(はるけ)き意にして海外の国を云う。
〇経津主命(フツヌシノミコト)
命はイザナギ・イザナミの二尊より出づ。初めタカミムスビノミコトは皇孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を立てて葦原(あしはら)の中国の主となさんとし給う。よりて天穂日尊(アメノホヒノミコト)や天稚彦(アメノワカヒコ)などを遣わししも皆忠誠ならず。即ち諸神にはかりてフツヌシノミコトと武甕槌命(タケミカヅチノミコト)とを遣わし給う。二神出雲に至り皇孫を降して此の国土に君臨せしめんとの天照大神の御旨を伝える。大国主命、詔をかしこみて命を奉じその経営せし国土を上りぬ。かく偉勲(いくん)ありしかはフツヌシノミコトは香取神として歴代朝廷の崇敬厚く、古来鹿島神社に合祀ありしが、後神宮とし給う。下総香取郡香取町にある官幣大社、是なり。せるを以て、藤原氏は氏神として崇め、鎌倉将軍もまた武神として之を尊信す。
〇武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
ミコトはフツヌシノミコトと其の祖を同じくす。フツヌシノミコトと共に出雲に至りて、天照大神の御旨を大国主命に伝えて、其の国土を天孫に上らしむ。かく偉動ありしかば鹿島神として歴代朝廷の崇敬厚く、アメノコヤネノミコトを合祀せるを以て、藤原氏は氏神として崇め、鎌倉将軍もまた武神として之を尊信す。
〇出雲大社
大社は簸川郡杵築町に在りて、大国主神及びスサオノミコトを合祀す。大国主命が国土を捧げて自ら退居せし杵築宮のあとに祭れるもの即ち是なり。それ大社と云うは、殿閣の営造門廊の構成等すこぶるに壮大なるに起これりと。大社の創建は神代に在りて歴代朝廷の崇敬厚く、現に官幣大社なり。
〇天照大神の詔
日本書記に「葦原千五百秋(あしはらのちいおあき)の瑞穂国(みづほのくに)は、これ吾が子孫の王たるべきの地なり、宜しく爾皇孫(いましすめみま)就いて治めよ、行けよ、寶祚(ほうそ)の隆(さか)えまさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と無窮(きはまりな)かるべし。」 と見え、又アメノオシホミミノミコトに三種の神器の一なる神鏡を授け給うとき 「吾児この寶鏡(かがみ)視ること、当(まさ)に吾を視るがごとく、興(とも)に床を同じくし殿を共し以て寶鏡(いはひのかがみ)と為すべし」と見ゆ、天照大神の詔是なり。
〇三種の神器の由来
八咫鏡(やたのかがみ)・八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)及び草薙劔(くさなぎのつるぎ)、これを三種の神器とす。初め天照大神御弟 スサノオノミコトの暴行を怒りて石窟にかくれ給うや、諸神これを迎え奉らんとし、石凝姥(イシゴリドメ)命に銅にて八咫鏡を作らしめ、玉祖命(タマノオヤノミコト)に八坂瓊勾玉を作らしむ。神鏡・神璽(しんじ)これなり。八咫は古に物を度るに呎と云う名ありしより、鏡の径八寸ある意とも、或は八頭の義にて八稜(八りょう)形なりしとも云う。又八坂瓊勾玉は美玉の数多を長き緒に貫きたるものにて、八坂は尺度の義なり。また草薙劔はスサノオノミコトの出雲にて大蛇を平らげて獲給いしものなり。大蛇の居る所の天上に常に雲気ありしより、初め叢雲(ムラクモ)劔と云いしが、後に草薙劔と改められる。
〇天児屋根命(アメヤコネノミコト)
命は神皇産霊尊命(カミムスビノミコト)の子にして中臣氏・藤原氏等の祖なり。命は天照大神に仕え、大神の石窟に隠れ給いし時、太玉命(フトタマノミコト)と共にその怒を散じ給うことを図り、天孫降臨の際には、天孫に従い奉り、また大神の命にてフトタマノミコトと天孫の為に社殿たぐいを立ててまつり、或は殿内に在りて天孫を護衛し奉れり。孫天種子命は神武天皇に仕え奉る。
〇天忍日命(アメノオシヒノミコト)
命は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)の子にして大伴氏の祖なり。天孫降臨の時に久米(クメ)氏の祖なる天津久米命(アマツクメノミコト)と共に弓矢を取りて之に従い、其の前駆(ぜんく)を警護し奉る。曾孫 道臣命(ミチノオミノミコト)は神武天皇に仕え奉る。
〇太玉命(フトタマノミコト)
命はタカミムスビノミコトの子にして斎部(イムベ)氏の祖なり。天照大神の石窟にかくれ給いし時、部下を率いて和幣(御幣)を祀り、アマヤコネノミコトと共に大神の怒をとき奉る。また天孫の為にアマヤコネノミコトと共に殿内に在りて警護し、降臨の時、之に従い奉る。安房神社はフトタマノミコトを祀る。孫 天富命(アメノトミノミコト)は神武天皇に仕え奉る。
〇笠狭崎(かささのさき)
古の伝えに吾田(アダ)の笠狭の御崎と見ゆ。その吾田は今の薩摩をややし、笠狭は同国川邊郡加世田郷の在りし地にして、今の野間岬に当たれるものの如し。
〇日向御三世
天孫ニニギノミコトの日向に降臨し給いてより、御子 彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)、御孫 鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の御三代、此にて天下を治め給いしを以て、之を日向御三世と申す。
〇大嘗会(だいじょうえ)
天皇御即位の典禮(てんれい)を行われし後、始めて新穀を以て天照大神及び天神・地祇を祭り給うを云う。天皇一世一度の新嘗(しんじょう・にいなめ)にして、大新嘗(だいしんじょう)とも践祚大嘗祭(せんそおおにえのまつり)とも称す。上古大嘗を新嘗とも書して之を区別せず、この大嘗祭はその義全く新嘗祭に同じきが故なり。その区別のようやく分かれしは、天武天皇の頃より以後に在り。さてこの祭には、悠紀(ゆき)・主基(すき)の二斎国(ふたいつきのくに)の稲を用いて神饌(しんせん)となす。中世以降両斎国は、毎に近江を以て悠紀とし、丹波・備中を以て主基とす。明治天皇の時は甲斐を悠紀とし、安房を主基とし、今上天皇は愛知県を悠紀地方とし、香川県を以て主基地方と治定せしめ給う。貞観儀式の制にては、受禅の天皇その即位7月以前にあらば、当年大嘗会を行い、8月以降ならば、明年に行うべきことに定めしも、古来変例少なからず。殊に室町幕府の末争乱相つぎ、朝廷の典禮 廃れて、この大典をも旧例の如く行われずして継続せしが、、櫻町天皇の時、復興せられてより、永く不刊の大典となれり。
〇瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
天照大神の御孫にして、神武天皇の御(曾)祖父に当らせ給う。御父はアメノオシホミミノミコトにして御母はカミムスビノミコトの女栲幡千千姫(タグハタチヂヒメ)なり。皇祖カミムスビノミコト特に尊を愛し給う。天照大神御子孫をして中国を治めしめんとし、使を出雲に遣わして大国主命に国土を上らしめ給う。命大神の命を奉じて国土を上るに及びニニギノミコトに勅して(勅語は五頁に見ゆ)中国を治めしめ給い三種の神器を授け給う。これに於て尊は多くの神々を従えて日向国に降臨し給う。是より神武天皇に至るまで三代日向にましまして徳化を布き給う。


(続き)戦前の日本史教科書準拠 参考書より 〜 神武天皇

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◆真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  崇神天皇と垂仁天皇

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真実の日本の歴史 〜 戦前の日本史教科書準拠 参考書より  神代〜古代
はしがき・もくじ

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(2016.10.14)
今の日本で教えられてる歴史はデタラメ。現在、出回ってる歴史関連の本でも、本当に信頼できるものは非常に少ない。戦前のもので何かいいものはないかと探してて見つけたのがこの本です。昔の本は残ってる数自体少なく、とっても希少ですが、古い歴史学習書で入手できるものをいろいろ集めてみて、わかりやすそうだし一番いいなと思ったのがこれです。前にこちらでも神代の年表をアップしてますが、それと同じ妻木忠太さんの『最新 日本歴史解釈』という参考書のもの。もちろん、古代については古事記や日本書紀を元に書かれており、何度も重版されてるし、当時はかなりポピュラーな学習書だったと思われます。今からちょうど百年前に発行された本ですね、何かのめぐり合わせでしょうか。
コチラの『和俗童子訓』(貝原益軒)を元にした武家の子女教育カリキュラムの作成協力いただいた女子学生のミズキさんにも、この戦前の歴史読本の入力ご協力いただきました。 まだ少しですが、その一部が上がっておりますので、これから順次、公開していきますね。今日は目次とはしがきだけですが、仕上がってる部分は続いてアップさせていただきます。失われた歴史教育再興のため、まずはこの目次にある神代から大和朝廷以前の頃までの全13章を、テキストでアップする予定です。尚、この本には挿絵等はありませんので、挿絵等については同じく戦前の他の学習年表等を利用していきます。

『最新 日本歴史解釈』(1917年・妻木 忠太 著)より


はしがき


一 本書は主として師範学校中学校高等女学校等中等程度の各種学校における学生諸子の日本歴史教科の演習復習に便にし、又高等学校陸軍士官学校商業学校等各種専門学校入学志願者の日本歴史科受験の参考用に充てんことを目的として編纂したる所なり。


一 現行の中等程度日本歴史教科書の課題は文部省にて編纂せられたる教授要目に準拠したるもの多し。よりて本書の課題もまた大概文部省公示の教授要目に従いたり。しかしてその課題の下に収録せる教材は、現にも最も広く採用せられたる教科書数種につきて選定し、更にこれを節に分ち、その各節の事項は摘要を記してこれを順序に次列したり。これ摘要を順序に次列せしは予習復習によって一見各節の要項を知り、これに注意せば容易にその事実の全体を記憶し得べからしめんが為して、就中事実の説明の要すべきものには星符を施し各課題の終においてこれが解釈をなしたり。


一 本書は中等程度の各種学校日本歴史科の予習復習に便するとともに、各種専門学校入学志願者の日本歴史科受験準備用に充てんとしたれば、更に最近十一箇年間の各種専門学校日本歴史科試験問題の解釈をなしこれを適当なる各課題の終に収めたり。


一 本書を編纂するに当たりて、国定教科書小学日本歴史及び同教師用教科書にも斟酌し、またもって小学校における歴史科教授の際教師の参考たらんことに意を用いたり。


一 本書に解釈したる事項にその数約1,200に達し、しかもこれが簡明に務めたれば、なお辞典の用をなすことおおかるべく、従いて中等教員受験者の参考たること確かに少なくならざるべきを信ず。


一 本書の終には発音引の索引を附し、主として本書中に解釈を施したる事項を五十音の順序に従いて配列したり。


大正6年3月
編者 識す


目   次

1 神代 皇基の遼遠

2 神武天皇

3 崇神天皇と垂仁天皇

4 日本武尊(やまとたける) 成務天皇

5 朝鮮半島の内府 神功皇后の征伐 文物の伝来

6 仁徳天皇と雄略天皇 顕宗 仁賢 両天皇

7 朝鮮半島の変遷 (征韓後の韓土の形勢〜任那 日本府の滅亡)

8 仏教の伝来と蘇我 物部 両氏の争い

9 聖徳太子 支那への使節派遣

10 仏教の興隆 美術工芸の進歩

11 蘇我氏の無道

12 大化の新政

13 蝦夷の服属 韓土の変遷(百済高麗の滅亡・新羅の朝鮮半島統一)

14 天智天皇 律令の選定

15 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)


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(2017.3.18)
第15章 奈良奠都 (史書撰修) 隼人 及 西南諸島の服属 (支那との交流)までアップしてます。ここで終えようと思ってたのですが、もうちょっとだけ後にアップしようかとも思ってます。

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